『叡知の海・宇宙』(6)
昨日に続けます。
「私が考えていたのは、世界のなかで進化する存在を、有機的に統合された宇宙の要素として意味をなすように定義するにはどうすればよいかということだった。イェールの同僚たちが、『一般システム理論』を提唱するルートヴィッヒ・フォン・ベルタランフィのことを教えてくれた。
ベルタランフィは、生物学という分野を総合的な体系としてまとめ、その体系そのものをさらに他の科学の分野や、人文・社会科学と統合することをめざしていた。彼にとって鍵となる概念は、世界の基本的な存在の一つとしてとらえられた『システム』であった。
彼は、システムは、物理学的な自然、生物学的な自然、そして人間世界のなかで、同じように(『同形で』)現れると主張した。これはひじょうに役に立った。すなわち、私が求めていた、ツールとして使える概念を提供してくれたのである。
私はフォン・ベルタランフィの著作を読み、その後彼と面識を得、二人で『システム哲学』と名づけた考え方を共同で展開させた。
一九七二年に出版した『システム哲学入門』(邦訳、紀伊国屋書店)は、入念な調査に基づいた本である。五年かけて執筆したもので、これが出版されたときには、私はそれによって得た栄誉に甘んじてしばらく休みたい気持ちにもなった。
しかし、私はまだ不満であった。さまざまなシステムがどのように構成されており、お互いにどのように関係しあっているのかを明らかにするだけではなく、システムがどのように変化し進化するかを明らかにする答えを最先端の科学のなかに見出さなければならなかったのである。
ホワイトヘッドの形而上学から基本原則を得、ベルタランフィの一般システム理論によってシステムと環境の関係が明らかになった。さらに必要だったのは、これらの関係がどのようにして、生物圏と宇宙全体における、統合的で全体としては非可逆な進化につながるのかを理解する鍵であった。」(P248)
さて、昨日のホワイトヘッドに続き、ベルタランフィという、やはり重要人物が出てきました。
ベルタランフィには、有名な『一般システム理論』(みすず書房)という本があり、私は大学のときに買って読もうと思って、挫折しました。
高等数学の数式バンバンの本で、私は高校時代までは数式がメチャクチャ好きで、大学の数学や物理学の本まで読んでいたのですが、かなり背伸びしてたんですね。結局、めんどくさくなって、大学に入ったらそういう勉強をまったくする気がなくなって、それまで好きだけどやるのを押さえられていた運動・スポーツばっかりやっていた、という感じでした。
でも、20歳でヨガに出会ったことが切っ掛けで、哲学的なことを考えるのは好きで、この本も買うには買ったけど、挫折した、という経緯があります。
一方で、現代日本の知の巨人(の一人)と呼ばれる松岡正剛氏、彼は若い頃、この本を貪るように読んだということが、「ベルタランフィ」で検索したら氏の「千夜千冊」がまた出てきて、その中に書かれていました。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0521.html
「ぼくが本書を貪るように読んだのは、まだホワイトヘッドもウォディントンも、フォン・ユクスキュルすら読んでいなかったころだったということを思い出した。
ということは、ぼくはまさにベルタランフィによってシステム論に初めて進水していったということであって、いまこのページを書いているときも、いささかその最初の興奮を忘れていないままになりすぎていたと思わざるをえない。」
そこから続けて、ベルタランフィの紹介を引用させていただきます。
「1901年、ウィーン生まれのフォン・ベルタランフィが70歳になったときの記念論文集には、13ヶ国、50人の研究者が寄稿した。その領域は生物学から人類学まで、歴史学から神秘学まで、コンピュータ・サイエンスから文学にまでおよんだ。
しかし、ベルタランフィがどんな人物でどんな業績をのこしたかを知る者は少ない。ベルタランフィの専門はすこぶる多岐にわたっていて、ざっとあげただけでも、理論生物学の構築、開放系非平衡熱力学の予見、物質代謝と生物成長の関係の研究、染色法によるガン細胞発見の手法の開発、水産学におけるベルタランフィ方程式の発見、ドイツ神秘主義の研究やクザヌスの研究、シュペングラーやファイヒンガーの哲学研究など、べらぼうな広範囲にわたるのに、その成果の一部を知る者すら少ないのである。
あまりに広いためにわかりにくいのかもしれない。
けれども、これらの成果にひそむものを一言でいえば、システムとは何かということなのである。だからベルタランフィは世界最初のシステム科学者だったのだ。しかるに、われわれは『システム』とは何かということを、ろくに知ってはいない。このことが、ベルタランフィをして『20世紀で最も知られていない知の巨人』にしてしまったゆえんなのである。
かつてアインシュタインは、『もし人類がこれ以上の生存を望むなら、われわれに求められているのはまったく新しい思考法であるだろう』と書いた。
ベルタランフィにとって、この新しい思考法とはシステムによって世界や自然や社会を考える方法のことをさしていた。システムによって思考するとは、どういうことか。ベルタランフィが発見したのは、システムとは『相互連関する諸要素が複合関係的にくみたてている動向の総体』ではないかということだった。
だから電気通信もシステムだし、ヒマワリやシェパード犬もシステムであって、テレビ受像機も郵便制度も交響曲もシステムであり、また個性のような心理的なものも、学校のような制度と知識と人員がくみあわさっているものも、また法律も、道徳でさえシステムだということになる。
ぼくはこういう見方があるのかと驚いた。何か一つの現象や仕組や機構をシステムとみなすのならともかくも、それらのすべてを相互連環的にシステムとして見るべきだという。
かつて、このように自然や世界や社会や機械のさまざまな現象や仕組を、同じ『システム』という概念で捉えるなんてことは、誰もできなかった。しかもベルタランフィが関心を寄せたのは、これらのシステムのいずれにも共通する特質は何かということだったのである。一般システム理論(GST)の『一般』とは、そういう意義をもっていた。
たしかに、電気通信システムとシェパード犬のシステムと学校システムを、われわれはすぐさま比較することができないし、それらに共通する統合的な視点をもちあわせてはいない。
だいいち、これらを統合して見る必要があるなどとは、誰も感じてもいなかった。しかしながらベルタランフィは、そこに現代人の思考法の限界があらわれているのだと見た。まだ1930年代のことである。そしてこのままでは、人間の『知』というものはタテ割りになったまま、どんどんバラバラになっていくと危惧した。
では、どうしたら、これらをシステムとして統括して見ることができるのか。そこでベルタランフィは、システムの最も普遍的なモデルを生物体におき、その特徴を見きわめることから、システムを通してさまざまな現象や実態を比較統一的に見る方法の開発に着手していった。生物たちの『知』は人間にくらべると低劣のように見えるものの、かれらはその『知』をそれぞれの生体システムとして完璧なまでに完成させているように見えるからだった。」
この後もとても面白い文章が続いてますので、是非お読みください。
松岡さんがやられている編集工学というのも、システム論といっていいでしょうから、これが彼の根幹にあるのでしょうね。
彼が、若くして『一般システム理論』に出会ったことが、今日の彼をして「知の巨人」を言われるまでにしたのかもしれません。
私は、残念ながら、挫折したおかげで、全然そういった方向には行けなかったわけです。私が当時「ホリスティック・リーディング」の方法を知っていたら、読みこなすことは可能だったと思います。
専門的な研究者として大成するかどうかは、鍵になる難解な「壁」になるような本を超えられるかどうか、というのが非常に大きいのです。
それが、私がこの読書法を紹介している理由です。
ところで、私が秘教~神智学に出会ったとき、『一般システム理論』の本のことを思い出しました。
真の一般システム理論は、ここにあると。
『秘教から科学へ』P18には、
「その(秘教)の論理体系は“現代宇宙論”をはじめ、フォン・ベルタランフィ等によって提唱された“一般システム理論”、近年話題になった“複雑系”等の“中核をなす具体的構造”であるということができるでしょう。」
と書いています。
私は秘教~神智学を学んで理解すれば、一般システム理論も複雑系も勉強する必要なない、とそのとき感じ、今もそう考えています。秘教~神智学のなかに、それらに限らずあらゆる科学・哲学・宗教のエッセンスが入っているからです。
それを科学の言葉で論じようと思ったときに、一般システム理論や複雑系という表現になる、ということです。
私は、大学で体育に移って、特に大学院以降、ほとんどこういった本を読むことがなくなりました。一方で、実際に身体を動かして研究したり、運動関係の研究所を立ち上げて10年くらいは事務的な作業で追われていましたが、そういった実践のなかで、システムを感じ、学ぶことができました。
それが、神智学に出会って非常に短期間でそれをある程度消化することができた、ひとつの理由だと思っています。
もしあのとき『一般システム理論』を読破できたら、全然違った(文献)研究者の道が開けていたかもしれません。そして、秘教~神智学に、少なくても私が実際に体験したような形で出会うことはなかったと思います。
秘教~神智学を学んだとしても、今とはまったく異なる位置づけを、それに与えていたことでしょう。
今、こうしてラズロを読み、こういったことを遅ればせながら勉強し始めたのは、ワールドシフト・・・これは人類が力を合わせてやらなければいけないことであるため、色々なものを翻訳してつなぐためには、この時期、やはりそれらも知っておく必要があるな、というのが理由でした。
人生とは、多様な可能性のある、不思議なものですね。
「私が考えていたのは、世界のなかで進化する存在を、有機的に統合された宇宙の要素として意味をなすように定義するにはどうすればよいかということだった。イェールの同僚たちが、『一般システム理論』を提唱するルートヴィッヒ・フォン・ベルタランフィのことを教えてくれた。
ベルタランフィは、生物学という分野を総合的な体系としてまとめ、その体系そのものをさらに他の科学の分野や、人文・社会科学と統合することをめざしていた。彼にとって鍵となる概念は、世界の基本的な存在の一つとしてとらえられた『システム』であった。
彼は、システムは、物理学的な自然、生物学的な自然、そして人間世界のなかで、同じように(『同形で』)現れると主張した。これはひじょうに役に立った。すなわち、私が求めていた、ツールとして使える概念を提供してくれたのである。
私はフォン・ベルタランフィの著作を読み、その後彼と面識を得、二人で『システム哲学』と名づけた考え方を共同で展開させた。
一九七二年に出版した『システム哲学入門』(邦訳、紀伊国屋書店)は、入念な調査に基づいた本である。五年かけて執筆したもので、これが出版されたときには、私はそれによって得た栄誉に甘んじてしばらく休みたい気持ちにもなった。
しかし、私はまだ不満であった。さまざまなシステムがどのように構成されており、お互いにどのように関係しあっているのかを明らかにするだけではなく、システムがどのように変化し進化するかを明らかにする答えを最先端の科学のなかに見出さなければならなかったのである。
ホワイトヘッドの形而上学から基本原則を得、ベルタランフィの一般システム理論によってシステムと環境の関係が明らかになった。さらに必要だったのは、これらの関係がどのようにして、生物圏と宇宙全体における、統合的で全体としては非可逆な進化につながるのかを理解する鍵であった。」(P248)
さて、昨日のホワイトヘッドに続き、ベルタランフィという、やはり重要人物が出てきました。
ベルタランフィには、有名な『一般システム理論』(みすず書房)という本があり、私は大学のときに買って読もうと思って、挫折しました。
高等数学の数式バンバンの本で、私は高校時代までは数式がメチャクチャ好きで、大学の数学や物理学の本まで読んでいたのですが、かなり背伸びしてたんですね。結局、めんどくさくなって、大学に入ったらそういう勉強をまったくする気がなくなって、それまで好きだけどやるのを押さえられていた運動・スポーツばっかりやっていた、という感じでした。
でも、20歳でヨガに出会ったことが切っ掛けで、哲学的なことを考えるのは好きで、この本も買うには買ったけど、挫折した、という経緯があります。
一方で、現代日本の知の巨人(の一人)と呼ばれる松岡正剛氏、彼は若い頃、この本を貪るように読んだということが、「ベルタランフィ」で検索したら氏の「千夜千冊」がまた出てきて、その中に書かれていました。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0521.html
「ぼくが本書を貪るように読んだのは、まだホワイトヘッドもウォディントンも、フォン・ユクスキュルすら読んでいなかったころだったということを思い出した。
ということは、ぼくはまさにベルタランフィによってシステム論に初めて進水していったということであって、いまこのページを書いているときも、いささかその最初の興奮を忘れていないままになりすぎていたと思わざるをえない。」
そこから続けて、ベルタランフィの紹介を引用させていただきます。
「1901年、ウィーン生まれのフォン・ベルタランフィが70歳になったときの記念論文集には、13ヶ国、50人の研究者が寄稿した。その領域は生物学から人類学まで、歴史学から神秘学まで、コンピュータ・サイエンスから文学にまでおよんだ。
しかし、ベルタランフィがどんな人物でどんな業績をのこしたかを知る者は少ない。ベルタランフィの専門はすこぶる多岐にわたっていて、ざっとあげただけでも、理論生物学の構築、開放系非平衡熱力学の予見、物質代謝と生物成長の関係の研究、染色法によるガン細胞発見の手法の開発、水産学におけるベルタランフィ方程式の発見、ドイツ神秘主義の研究やクザヌスの研究、シュペングラーやファイヒンガーの哲学研究など、べらぼうな広範囲にわたるのに、その成果の一部を知る者すら少ないのである。
あまりに広いためにわかりにくいのかもしれない。
けれども、これらの成果にひそむものを一言でいえば、システムとは何かということなのである。だからベルタランフィは世界最初のシステム科学者だったのだ。しかるに、われわれは『システム』とは何かということを、ろくに知ってはいない。このことが、ベルタランフィをして『20世紀で最も知られていない知の巨人』にしてしまったゆえんなのである。
かつてアインシュタインは、『もし人類がこれ以上の生存を望むなら、われわれに求められているのはまったく新しい思考法であるだろう』と書いた。
ベルタランフィにとって、この新しい思考法とはシステムによって世界や自然や社会を考える方法のことをさしていた。システムによって思考するとは、どういうことか。ベルタランフィが発見したのは、システムとは『相互連関する諸要素が複合関係的にくみたてている動向の総体』ではないかということだった。
だから電気通信もシステムだし、ヒマワリやシェパード犬もシステムであって、テレビ受像機も郵便制度も交響曲もシステムであり、また個性のような心理的なものも、学校のような制度と知識と人員がくみあわさっているものも、また法律も、道徳でさえシステムだということになる。
ぼくはこういう見方があるのかと驚いた。何か一つの現象や仕組や機構をシステムとみなすのならともかくも、それらのすべてを相互連環的にシステムとして見るべきだという。
かつて、このように自然や世界や社会や機械のさまざまな現象や仕組を、同じ『システム』という概念で捉えるなんてことは、誰もできなかった。しかもベルタランフィが関心を寄せたのは、これらのシステムのいずれにも共通する特質は何かということだったのである。一般システム理論(GST)の『一般』とは、そういう意義をもっていた。
たしかに、電気通信システムとシェパード犬のシステムと学校システムを、われわれはすぐさま比較することができないし、それらに共通する統合的な視点をもちあわせてはいない。
だいいち、これらを統合して見る必要があるなどとは、誰も感じてもいなかった。しかしながらベルタランフィは、そこに現代人の思考法の限界があらわれているのだと見た。まだ1930年代のことである。そしてこのままでは、人間の『知』というものはタテ割りになったまま、どんどんバラバラになっていくと危惧した。
では、どうしたら、これらをシステムとして統括して見ることができるのか。そこでベルタランフィは、システムの最も普遍的なモデルを生物体におき、その特徴を見きわめることから、システムを通してさまざまな現象や実態を比較統一的に見る方法の開発に着手していった。生物たちの『知』は人間にくらべると低劣のように見えるものの、かれらはその『知』をそれぞれの生体システムとして完璧なまでに完成させているように見えるからだった。」
この後もとても面白い文章が続いてますので、是非お読みください。
松岡さんがやられている編集工学というのも、システム論といっていいでしょうから、これが彼の根幹にあるのでしょうね。
彼が、若くして『一般システム理論』に出会ったことが、今日の彼をして「知の巨人」を言われるまでにしたのかもしれません。
私は、残念ながら、挫折したおかげで、全然そういった方向には行けなかったわけです。私が当時「ホリスティック・リーディング」の方法を知っていたら、読みこなすことは可能だったと思います。
専門的な研究者として大成するかどうかは、鍵になる難解な「壁」になるような本を超えられるかどうか、というのが非常に大きいのです。
それが、私がこの読書法を紹介している理由です。
ところで、私が秘教~神智学に出会ったとき、『一般システム理論』の本のことを思い出しました。
真の一般システム理論は、ここにあると。
『秘教から科学へ』P18には、
「その(秘教)の論理体系は“現代宇宙論”をはじめ、フォン・ベルタランフィ等によって提唱された“一般システム理論”、近年話題になった“複雑系”等の“中核をなす具体的構造”であるということができるでしょう。」
と書いています。
私は秘教~神智学を学んで理解すれば、一般システム理論も複雑系も勉強する必要なない、とそのとき感じ、今もそう考えています。秘教~神智学のなかに、それらに限らずあらゆる科学・哲学・宗教のエッセンスが入っているからです。
それを科学の言葉で論じようと思ったときに、一般システム理論や複雑系という表現になる、ということです。
私は、大学で体育に移って、特に大学院以降、ほとんどこういった本を読むことがなくなりました。一方で、実際に身体を動かして研究したり、運動関係の研究所を立ち上げて10年くらいは事務的な作業で追われていましたが、そういった実践のなかで、システムを感じ、学ぶことができました。
それが、神智学に出会って非常に短期間でそれをある程度消化することができた、ひとつの理由だと思っています。
もしあのとき『一般システム理論』を読破できたら、全然違った(文献)研究者の道が開けていたかもしれません。そして、秘教~神智学に、少なくても私が実際に体験したような形で出会うことはなかったと思います。
秘教~神智学を学んだとしても、今とはまったく異なる位置づけを、それに与えていたことでしょう。
今、こうしてラズロを読み、こういったことを遅ればせながら勉強し始めたのは、ワールドシフト・・・これは人類が力を合わせてやらなければいけないことであるため、色々なものを翻訳してつなぐためには、この時期、やはりそれらも知っておく必要があるな、というのが理由でした。
人生とは、多様な可能性のある、不思議なものですね。
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