『生き方としてのヨガ』(2)
この本は2001年発行で、その内容は沖ヨガ時代に習得されたことが中心だと思います。沖ヨガの特徴は、カルマ・ヨガで、生活を全体を通して人間性を高めていく、というものです。そのため合宿制で、普通は1週間の人が多いのですが、長い人は何カ月も住み込みで、心身の改善に取り組んでいました。
なかには完全に精神病と思われる人もいましたが、心の広い人からは可愛がられ、受け入れられ、共存していました。
まだ生活習慣病という言葉がなく、「成人病」という言葉が使われていた時代でしたが、病気は生活習慣からくるという見方が徹底されていて、心身のあらゆる角度からのアプローチがなされていました。(といっても、指導者の専門的なレベルはあまり高くない人が多かったのですが、それでも、食事・運動・入浴・治療・瞑想・心の持ち方などトータルなアプローチが功を奏して、西洋医学で見はなされた方が、(当時で言えば)奇跡的に改善され、治癒されていく姿を、日常的に見ることができました。
私はインドや東南アジア諸国にいったことがないので、アーユルヴェーダなどが現地ではどのような形で行われているかは知らず、したがって沖ヨガでやられていたことがどれくらいオリジナリティのあるものなのかは分かりませんが、アンドリュー・ワイル氏などとは早くから交流があり、ワイル氏もおそらく沖ヨガでやられていた実践には注目されていたのではないか、と思います。
さて、沖ヨガの中では、「丹田力」と「仏性力」というものが、重視されていました。
それについて、第4章に書かれていますので、紹介いたします。
「生活ヨガでは、自分らしく生きるためには、古来から自己の生命の働き(力)の中心点とされる丹田の能力(丹田力)と仏性の能力(仏性力)を開発し啓発することが必要だと説いています。生命の働きを現代風にやさしく表現するなら、『適応性の働き、恒常性維持の力、バランス維持の力』と言えます。丹田と仏性は、幅広い生命の働きを生理面と心理面から呼んだ名称で、本来は別々のものではありませんが、分かりやすくするために、便宜的に心身を分けて解説しています。
内容面から言うと、丹田力は、外からの力によって崩されない力学的(物理的)安定力です。また内部の生化学的なさまざまな機能のバランス維持機能、すなわち自律神経系、内分泌系、免疫系の正常性を保つ力、安定力でもあります。治癒の観点から言いますと、自然治癒力です。
一方、仏性力は、内外の刺激に対して、心理的な安定を保つ力です。仏教で言う浄化すべき三毒の心(貪り、怒り、無知)の状態は、心理的な安定を内から崩す要素ですが、仏性を啓発する行法を実行することでこれらの心が浄化され、コントロール力がついてきて幅広い心が育ってきます。それによってみずからを縛る心の状態から解放され、自然智が育まれてくるのです。
・・・
丹田の『丹』は、元来、中国道教に伝わる不老長寿の薬のことであり、『田』はそれを育てる場という意味です。丹田と仏性は別々に説かれることも多いのですが、本来は心身一如ですから、心理面の安定力を含めて『丹田』という場合が多いようです。中国ふうにいう上丹田(頭心部)と中丹田(胸心部)の内容は、それぞれ仏性の精神面、仏性の感情面に相当し、下丹田(腹心部)がいわゆる丹田と言えましょう。」(P175・176)
私は仏教にはあまり詳しくなく、仏性という言葉をよく理解していなかったのですが、この説明は(とりあえず)分かりやすいですね。
龍村氏の解説、この後、「脳と丹田」として、沖ヨガの道場でやられていた強化法という体操が脳の各部分の開発に対応している、という話に展開します。
床の上に這いつくばって、魚の動きや尺取り虫、ワニやカエル、四つ足の動き等をやらされるのですが、慣れないと床でこすれて色々なところの皮がむけ、それを毎日続けると傷口がこすれて痛く、化膿した経験などを思い出しながら、読んでいました。
30年前の当時は肉体訓練や丹田力の強化と思っていたのですが、脳にも効果があることは、15年くらい後に七田眞氏の本か、ドーマン法で知ったと思います。
龍村氏のこの説明は、そういった情報を取り入れたものではあると思いますが、沖先生が強化法を考えられたときには、そのようなことまで意識されていたのか、興味のあるところです。
「ヨガの訓練は、実は肉体の訓練ではなく脳の訓練そのものなのです。もちろん、指導者が正しいヨガを理解していることが前提で、最初から体操としてしか理解していないヨガ指導者の指導するものは別です。日常生活でも、どこかが痛かったり疲れていると、思考力が鈍り、創造意欲も落ちることは、だれでも経験的に知っています。生理的条件を整え、強めることは、心理的安定の土台なのです。
・・・欲望は悪いもの、動物的で低次元の心であるかのような説き方をしている「心を啓発する本」などをよく見かけますが、これはまったく逆なのです。欲望は『生命の働きに拍車をかけるもの』として、強いほど、深いほど、広いほど、生命力旺盛という意味でよいものなのです。ですから、古い脳を活性化させ、新しい脳が活発に働けるように訓練することが大切です。
問題にすべきは欲望にとらわれること、およびその方向と出し方です。欲望のエネルギーを、よくありがちな自己中心の方向から、自他一如、共存共栄、調和、統一の方向へ向けることです。方向を変える判断をしたり、その方法を考え、工夫し、つくりだすのは新しい脳の役目なのです。
欲望のエネルギーは出し方を間違えると、自他を破滅に導きます。食欲は学習欲に方向転換が可能であり、性欲は行動欲にある程度変えることが可能です。そしてたとえば、『すべての生命、人類が救われることに役立たせていただき、真の智慧を得て、愛を捧げたい』というふうに、欲望を質的に高める方向へ道づけることが、新旧の脳を調和・統一する道なのです。」(P210・211)
「仏性は、いわば心が高度に働いている状態のことですから、知・情・意が最高に開発され、かつバランスのとれた状態と言えるでしょう。見方を変えると、右脳・左脳・脳幹が最高に開発され、かつバランスのとれた状態、大脳・辺縁系・脳幹がバランスよく働いている状態と言うこともできると思います。
左脳を仮に理性としますと、その最高の働きが真の智慧で、右脳を感情としますと、その最高の働きが聖なる愛の心です。それとともに脳幹=上丹田(三丹田を代表させて)=氣力が最高に開発され、この三者がバランスよく一つになったときの働きが仏性と言えるでしょう。」(P228・289)
私は、唯脳論的な考え方には反対ですが、こういった把握の仕方には意味があると思っています。
なかには完全に精神病と思われる人もいましたが、心の広い人からは可愛がられ、受け入れられ、共存していました。
まだ生活習慣病という言葉がなく、「成人病」という言葉が使われていた時代でしたが、病気は生活習慣からくるという見方が徹底されていて、心身のあらゆる角度からのアプローチがなされていました。(といっても、指導者の専門的なレベルはあまり高くない人が多かったのですが、それでも、食事・運動・入浴・治療・瞑想・心の持ち方などトータルなアプローチが功を奏して、西洋医学で見はなされた方が、(当時で言えば)奇跡的に改善され、治癒されていく姿を、日常的に見ることができました。
私はインドや東南アジア諸国にいったことがないので、アーユルヴェーダなどが現地ではどのような形で行われているかは知らず、したがって沖ヨガでやられていたことがどれくらいオリジナリティのあるものなのかは分かりませんが、アンドリュー・ワイル氏などとは早くから交流があり、ワイル氏もおそらく沖ヨガでやられていた実践には注目されていたのではないか、と思います。
さて、沖ヨガの中では、「丹田力」と「仏性力」というものが、重視されていました。
それについて、第4章に書かれていますので、紹介いたします。
「生活ヨガでは、自分らしく生きるためには、古来から自己の生命の働き(力)の中心点とされる丹田の能力(丹田力)と仏性の能力(仏性力)を開発し啓発することが必要だと説いています。生命の働きを現代風にやさしく表現するなら、『適応性の働き、恒常性維持の力、バランス維持の力』と言えます。丹田と仏性は、幅広い生命の働きを生理面と心理面から呼んだ名称で、本来は別々のものではありませんが、分かりやすくするために、便宜的に心身を分けて解説しています。
内容面から言うと、丹田力は、外からの力によって崩されない力学的(物理的)安定力です。また内部の生化学的なさまざまな機能のバランス維持機能、すなわち自律神経系、内分泌系、免疫系の正常性を保つ力、安定力でもあります。治癒の観点から言いますと、自然治癒力です。
一方、仏性力は、内外の刺激に対して、心理的な安定を保つ力です。仏教で言う浄化すべき三毒の心(貪り、怒り、無知)の状態は、心理的な安定を内から崩す要素ですが、仏性を啓発する行法を実行することでこれらの心が浄化され、コントロール力がついてきて幅広い心が育ってきます。それによってみずからを縛る心の状態から解放され、自然智が育まれてくるのです。
・・・
丹田の『丹』は、元来、中国道教に伝わる不老長寿の薬のことであり、『田』はそれを育てる場という意味です。丹田と仏性は別々に説かれることも多いのですが、本来は心身一如ですから、心理面の安定力を含めて『丹田』という場合が多いようです。中国ふうにいう上丹田(頭心部)と中丹田(胸心部)の内容は、それぞれ仏性の精神面、仏性の感情面に相当し、下丹田(腹心部)がいわゆる丹田と言えましょう。」(P175・176)
私は仏教にはあまり詳しくなく、仏性という言葉をよく理解していなかったのですが、この説明は(とりあえず)分かりやすいですね。
龍村氏の解説、この後、「脳と丹田」として、沖ヨガの道場でやられていた強化法という体操が脳の各部分の開発に対応している、という話に展開します。
床の上に這いつくばって、魚の動きや尺取り虫、ワニやカエル、四つ足の動き等をやらされるのですが、慣れないと床でこすれて色々なところの皮がむけ、それを毎日続けると傷口がこすれて痛く、化膿した経験などを思い出しながら、読んでいました。
30年前の当時は肉体訓練や丹田力の強化と思っていたのですが、脳にも効果があることは、15年くらい後に七田眞氏の本か、ドーマン法で知ったと思います。
龍村氏のこの説明は、そういった情報を取り入れたものではあると思いますが、沖先生が強化法を考えられたときには、そのようなことまで意識されていたのか、興味のあるところです。
「ヨガの訓練は、実は肉体の訓練ではなく脳の訓練そのものなのです。もちろん、指導者が正しいヨガを理解していることが前提で、最初から体操としてしか理解していないヨガ指導者の指導するものは別です。日常生活でも、どこかが痛かったり疲れていると、思考力が鈍り、創造意欲も落ちることは、だれでも経験的に知っています。生理的条件を整え、強めることは、心理的安定の土台なのです。
・・・欲望は悪いもの、動物的で低次元の心であるかのような説き方をしている「心を啓発する本」などをよく見かけますが、これはまったく逆なのです。欲望は『生命の働きに拍車をかけるもの』として、強いほど、深いほど、広いほど、生命力旺盛という意味でよいものなのです。ですから、古い脳を活性化させ、新しい脳が活発に働けるように訓練することが大切です。
問題にすべきは欲望にとらわれること、およびその方向と出し方です。欲望のエネルギーを、よくありがちな自己中心の方向から、自他一如、共存共栄、調和、統一の方向へ向けることです。方向を変える判断をしたり、その方法を考え、工夫し、つくりだすのは新しい脳の役目なのです。
欲望のエネルギーは出し方を間違えると、自他を破滅に導きます。食欲は学習欲に方向転換が可能であり、性欲は行動欲にある程度変えることが可能です。そしてたとえば、『すべての生命、人類が救われることに役立たせていただき、真の智慧を得て、愛を捧げたい』というふうに、欲望を質的に高める方向へ道づけることが、新旧の脳を調和・統一する道なのです。」(P210・211)
「仏性は、いわば心が高度に働いている状態のことですから、知・情・意が最高に開発され、かつバランスのとれた状態と言えるでしょう。見方を変えると、右脳・左脳・脳幹が最高に開発され、かつバランスのとれた状態、大脳・辺縁系・脳幹がバランスよく働いている状態と言うこともできると思います。
左脳を仮に理性としますと、その最高の働きが真の智慧で、右脳を感情としますと、その最高の働きが聖なる愛の心です。それとともに脳幹=上丹田(三丹田を代表させて)=氣力が最高に開発され、この三者がバランスよく一つになったときの働きが仏性と言えるでしょう。」(P228・289)
私は、唯脳論的な考え方には反対ですが、こういった把握の仕方には意味があると思っています。
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