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『生き方としてのヨガ』(1)
一昨日名前を出した龍村修氏のこの本について、簡単にご紹介しておきます。
この本で初めて得た知識として興味深かったのが「アネカンタの原則」です。この言葉、グーグルで検索しても、1件しかヒットなし。そこにも、「重要な教えだと思うけど、ほとんど書いてない」と書かれていました。
「ヨガや瞑想を学んで実行することは、心身を整え、清め、高め、強めていく上でよいことです。しかし正しく基本を学ぼうと思えば、まったくの独学では難しく、それなりの手ほどきが必要になってきます。その際、まずそうした団体の建物の豪華さなどの見かけに惑わされないよう心がけるだけでなく、指導者が独善的でない人を選ぶことがとても重要です。
いろいろな団体で精神的なことを学ぶ際も同じですが、『他のやり方は駄目だ、レベルが低い』などと他を否定することで自分を際立たせ、人々を引き込もうとするところや、こちらの話は聞こうともせず、一方的に自分の考えを述べるところは、人を盲目にさせてしまう危険性があります。真実に対して謙虚であれば、簡単に他を否定しないし、相手の言うことを聞こうとするものです。
古代から、洗心のための教えである『アヒムサ』(非暴力・不殺生)と並んで重要なのが『アネカンタ』(非独善・非唯一)の原則です。これは自分の思いや考えが唯一正しい、よいものだと思いこんでしまう自我の危険性を戒める教えです。」(P95・96)
これって、本当によくありますよね。特に宗教組織などは、こういうことがない方が稀だと思います。
神様という見えない、確証しえない存在を信じる場合は、「これが最高」と思わなければ、信じる気になりませんから。
「今の私にとっての最高」ならまだ良いのですが、「唯一絶対の最高」となると、激しい排他主義が始まります。
ヨガとか、能力開発的な指導者の中にも、こういった人たちは非常に多いです。そういった人たちは、多少の魅力はもっている場合が多く、それに魅かれてついてきた人たちを自分の枠に閉じこめて周りを見させないようにするために、他のものに必要のない批判を加えます。
真の実力者である場合もありますが、ない場合には、偉大なグルの直弟子だとか、何々公認であるとかいったことを隠れ蓑にすることもあります。(そういうことを言っている人、全部が全部、そうだといっているのではありません。)
男性は批判的な目で見るので、そういった表現があると懐疑的になるのですが、見ていると女性はそういうものに凄く容易に引き込まれていくようです。騙されたがっている、としか思えない場合もあります。何かにすがりたい、依存したいのでしょうね。そういう人に、「もう少し冷静に見た方がいいよ」などと注意すると、逆に噛みつかれる場合もありますね。なので、最近は見ても口出しはしないようにしています。
騙される方も悪いのですが、指導者の方がもちろんレベルは上ですし、最初の原因をつくっているわけですから、指導的立場の人は、もう一度自分がこの原則に反していないか、チェックする必要はありますね。
「私は、アネカンタの教えは今の時代にこそ必要である、と感じています。というのは、今ほど自己中心、自国中心、人間中心の発想を超えることの必要な時代はかつてなかったと思うからです。人間は、ともすれば自分こそ善であるという発想になりがちですが、とりわけ現代は、だれもが共有できる原理や独善的でない哲学・宗教が求められている時代だと思うのです。
昔から宗教にはさまざまな役割がありましたが、その中には、社会を統一し人々を救うために、価値観を統一することを目的として、人々の信仰心を使って平和や安定をもたらそうとするタイプの宗教がありました。キリスト教やイスラム教、また一神教的な宗教はそのような傾向が強いのですが、砂漠などの苛酷な生活環境の中で、集団をまとめあげ生きていくために、この種の宗教が必要だったのでしょう。
なぜなら、こういう環境ではバラバラになることは個人と集団の両方にとって死を意味するからです。この種の宗教は一人一人の『悟りや目覚め』よりも『信仰』を重視することで成り立っています。
このような方法は、世界が狭いあいだ、すなわち自分たちとは異なる価値観で生きている人々と接触する機会が少ない時代には、トラブルは起きにくいでしょう。しかし、現代は世界全体が政治・経済・交通などあらゆる分野で網の目のように結ばれ、地球のどこかで起こったことがすぐに世界中に伝わる時代です。そうなると、自分と異なる価値観を持って生きる人々としばしば身近に接触し、あるいは共に生活することになり、トラブルが生じやすくなります。たとえばどちらが真の唯一神か、といった争いが生じやすくなります。
こういう時代には、自分と異なる価値観で生きている人々を尊重する心を積極的に育てていかないと、気づかないうちに他者を自分の秤(はかり)にかけて一方的な判断をしてしまいがちです。また、その人たちの文化や習慣に無知であるため、恐怖心のような感情が生じやすく、その結果、偏見を持ったり、価値観の押しつけや不当な差別をしてしまうことがあります。」(P98・99)
世界が一つにつながり狭くなった時代、「バラバラになることは個人と集団の両方にとって死を意味する」時代に、新たな一神教が求められています。しかしそれは同時に、アネカンタの原則に基づくもの・・・多様性の中の統一を実現した新・世界宗教でなければなりません。
アネカンタは、ジャイナ教において、アヒムサ・アパリグラハ(無所有)と並ぶ、重要な教えであるとのこと。
先日、大会の打合せで龍村氏とお会いした際、アネカンタの原則に関しては是非お話いただけるよう、お願いしておきました。
この本で初めて得た知識として興味深かったのが「アネカンタの原則」です。この言葉、グーグルで検索しても、1件しかヒットなし。そこにも、「重要な教えだと思うけど、ほとんど書いてない」と書かれていました。
「ヨガや瞑想を学んで実行することは、心身を整え、清め、高め、強めていく上でよいことです。しかし正しく基本を学ぼうと思えば、まったくの独学では難しく、それなりの手ほどきが必要になってきます。その際、まずそうした団体の建物の豪華さなどの見かけに惑わされないよう心がけるだけでなく、指導者が独善的でない人を選ぶことがとても重要です。
いろいろな団体で精神的なことを学ぶ際も同じですが、『他のやり方は駄目だ、レベルが低い』などと他を否定することで自分を際立たせ、人々を引き込もうとするところや、こちらの話は聞こうともせず、一方的に自分の考えを述べるところは、人を盲目にさせてしまう危険性があります。真実に対して謙虚であれば、簡単に他を否定しないし、相手の言うことを聞こうとするものです。
古代から、洗心のための教えである『アヒムサ』(非暴力・不殺生)と並んで重要なのが『アネカンタ』(非独善・非唯一)の原則です。これは自分の思いや考えが唯一正しい、よいものだと思いこんでしまう自我の危険性を戒める教えです。」(P95・96)
これって、本当によくありますよね。特に宗教組織などは、こういうことがない方が稀だと思います。
神様という見えない、確証しえない存在を信じる場合は、「これが最高」と思わなければ、信じる気になりませんから。
「今の私にとっての最高」ならまだ良いのですが、「唯一絶対の最高」となると、激しい排他主義が始まります。
ヨガとか、能力開発的な指導者の中にも、こういった人たちは非常に多いです。そういった人たちは、多少の魅力はもっている場合が多く、それに魅かれてついてきた人たちを自分の枠に閉じこめて周りを見させないようにするために、他のものに必要のない批判を加えます。
真の実力者である場合もありますが、ない場合には、偉大なグルの直弟子だとか、何々公認であるとかいったことを隠れ蓑にすることもあります。(そういうことを言っている人、全部が全部、そうだといっているのではありません。)
男性は批判的な目で見るので、そういった表現があると懐疑的になるのですが、見ていると女性はそういうものに凄く容易に引き込まれていくようです。騙されたがっている、としか思えない場合もあります。何かにすがりたい、依存したいのでしょうね。そういう人に、「もう少し冷静に見た方がいいよ」などと注意すると、逆に噛みつかれる場合もありますね。なので、最近は見ても口出しはしないようにしています。
騙される方も悪いのですが、指導者の方がもちろんレベルは上ですし、最初の原因をつくっているわけですから、指導的立場の人は、もう一度自分がこの原則に反していないか、チェックする必要はありますね。
「私は、アネカンタの教えは今の時代にこそ必要である、と感じています。というのは、今ほど自己中心、自国中心、人間中心の発想を超えることの必要な時代はかつてなかったと思うからです。人間は、ともすれば自分こそ善であるという発想になりがちですが、とりわけ現代は、だれもが共有できる原理や独善的でない哲学・宗教が求められている時代だと思うのです。
昔から宗教にはさまざまな役割がありましたが、その中には、社会を統一し人々を救うために、価値観を統一することを目的として、人々の信仰心を使って平和や安定をもたらそうとするタイプの宗教がありました。キリスト教やイスラム教、また一神教的な宗教はそのような傾向が強いのですが、砂漠などの苛酷な生活環境の中で、集団をまとめあげ生きていくために、この種の宗教が必要だったのでしょう。
なぜなら、こういう環境ではバラバラになることは個人と集団の両方にとって死を意味するからです。この種の宗教は一人一人の『悟りや目覚め』よりも『信仰』を重視することで成り立っています。
このような方法は、世界が狭いあいだ、すなわち自分たちとは異なる価値観で生きている人々と接触する機会が少ない時代には、トラブルは起きにくいでしょう。しかし、現代は世界全体が政治・経済・交通などあらゆる分野で網の目のように結ばれ、地球のどこかで起こったことがすぐに世界中に伝わる時代です。そうなると、自分と異なる価値観を持って生きる人々としばしば身近に接触し、あるいは共に生活することになり、トラブルが生じやすくなります。たとえばどちらが真の唯一神か、といった争いが生じやすくなります。
こういう時代には、自分と異なる価値観で生きている人々を尊重する心を積極的に育てていかないと、気づかないうちに他者を自分の秤(はかり)にかけて一方的な判断をしてしまいがちです。また、その人たちの文化や習慣に無知であるため、恐怖心のような感情が生じやすく、その結果、偏見を持ったり、価値観の押しつけや不当な差別をしてしまうことがあります。」(P98・99)
世界が一つにつながり狭くなった時代、「バラバラになることは個人と集団の両方にとって死を意味する」時代に、新たな一神教が求められています。しかしそれは同時に、アネカンタの原則に基づくもの・・・多様性の中の統一を実現した新・世界宗教でなければなりません。
アネカンタは、ジャイナ教において、アヒムサ・アパリグラハ(無所有)と並ぶ、重要な教えであるとのこと。
先日、大会の打合せで龍村氏とお会いした際、アネカンタの原則に関しては是非お話いただけるよう、お願いしておきました。
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