「べてるの家」の生みの親 : 向谷地生良氏
『変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから』を読んで、清水義晴氏というのは「(今までは)隠れていた偉人」だなあ、という思いを強くしています。
この本の紹介は、明日から本格的にしたいと思っているのですが、その前に、その清水氏が完全に脱帽している感じの「べてるの家」の実践を生み出したといってもいいであろう向谷地生良(むかいやちいくよし)という人物を、紹介させていただこうと思います。
清水さんは最初、向谷地さんの小さな文集を読んで、心底こころを打たれたといいます。
「読み進むにつれ、あふれ出る涙を止めることができません。なんと驚くべき実践なのだろう、そしてなんと深い人生観なのだろう、そう私は受け止めました。ひとことで言うと、それは向谷地生良さんというひとりの人間が愛を見出すまでの体験の記録です。ひとつひとつは短い淡々とした文章に綴られた、その実践に私はこころを打たれたのです。
また、向谷地さんという人間のみごとさだけではなく、べてるというところからわき起こってくるなにかがあるのだと直感しました。『場』のもつ力です。」(P21・22)
向谷地生良に関しては、下記のようなHPがあり、その中にプロフィールがあります。
向谷地生良の「今日もそれで順調!」http://ikuyoshi.jugem.jp/
ソーシャルワーカー。北海道医療大学教授。
1984年に精神障がいを経験した当事者や有志と共に「浦河べてるの家」を、北海道・浦河町に設立。以来、精神障がいを抱えた人たちと社会や共同住居などをつくり、「弱さを絆に」「精神病で街おこし」を続けている。(『安心して絶望できる人生』2006 NHK出版 より)
その最初に掲載されている記事、「当事者の力に支えられる精神科医療」には、
「浦河には、30年の精神保健福祉活動の歴史が育んだ浦河ならではのユニークな理念や考え方がある。」として、次の7項目が書かれていて、どれもとてもユニークかつ奥深いものだと感じます。
1.「病気の半分は病院で、残りはべてるで治す」
2.「〈苦労の取り戻し〉を助ける」
3.「無力のアプローチ」
4.「仲間を処方する」
5.「自己病名をつける」
6.「話すこと、語ることの回復支援」
7.「病棟も地域の一部」
そして最後には、
「精神医療に必要なのは、当事者の力を前提とした『わきまえ』のある治療であり、援助である。浦河にべてるの家をはじめとする 『当事者の力』のネットワークがあることによって、その『わきまえ』は成り立ち、その『わきまえ』が、当事者の力を育んできたとも言える。」
と記されています。
向谷地さんが、どのようにして、このような考え方に至ったのか、それが知りたいですね。また時間ができたときに追及していきたいと思います。
この本の紹介は、明日から本格的にしたいと思っているのですが、その前に、その清水氏が完全に脱帽している感じの「べてるの家」の実践を生み出したといってもいいであろう向谷地生良(むかいやちいくよし)という人物を、紹介させていただこうと思います。
清水さんは最初、向谷地さんの小さな文集を読んで、心底こころを打たれたといいます。
「読み進むにつれ、あふれ出る涙を止めることができません。なんと驚くべき実践なのだろう、そしてなんと深い人生観なのだろう、そう私は受け止めました。ひとことで言うと、それは向谷地生良さんというひとりの人間が愛を見出すまでの体験の記録です。ひとつひとつは短い淡々とした文章に綴られた、その実践に私はこころを打たれたのです。
また、向谷地さんという人間のみごとさだけではなく、べてるというところからわき起こってくるなにかがあるのだと直感しました。『場』のもつ力です。」(P21・22)
向谷地生良に関しては、下記のようなHPがあり、その中にプロフィールがあります。
向谷地生良の「今日もそれで順調!」http://ikuyoshi.jugem.jp/
ソーシャルワーカー。北海道医療大学教授。
1984年に精神障がいを経験した当事者や有志と共に「浦河べてるの家」を、北海道・浦河町に設立。以来、精神障がいを抱えた人たちと社会や共同住居などをつくり、「弱さを絆に」「精神病で街おこし」を続けている。(『安心して絶望できる人生』2006 NHK出版 より)
その最初に掲載されている記事、「当事者の力に支えられる精神科医療」には、
「浦河には、30年の精神保健福祉活動の歴史が育んだ浦河ならではのユニークな理念や考え方がある。」として、次の7項目が書かれていて、どれもとてもユニークかつ奥深いものだと感じます。
1.「病気の半分は病院で、残りはべてるで治す」
2.「〈苦労の取り戻し〉を助ける」
3.「無力のアプローチ」
4.「仲間を処方する」
5.「自己病名をつける」
6.「話すこと、語ることの回復支援」
7.「病棟も地域の一部」
そして最後には、
「精神医療に必要なのは、当事者の力を前提とした『わきまえ』のある治療であり、援助である。浦河にべてるの家をはじめとする 『当事者の力』のネットワークがあることによって、その『わきまえ』は成り立ち、その『わきまえ』が、当事者の力を育んできたとも言える。」
と記されています。
向谷地さんが、どのようにして、このような考え方に至ったのか、それが知りたいですね。また時間ができたときに追及していきたいと思います。
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精神障害者の自立支援施設「べてるの家」
前々回の最後に名前を出した「べてるの家」、この話を読んでみると、現代社会を皮肉ったパロディかと思えるような、痛快な話(現実には深刻かつ真剣に皆生きていて、笑いあり、涙ありなのだと思います)がいっぱい出てきます。
なにせ、一人では普通に生きていくことも難しい人たちが集まっている施設で、清水義晴さんが手伝って「“利益のないところを大切にする”“安心してサボれる“会社」を立上げ、驚くほどの収益まであげているのですから。
「べてるの家」自体のサイトには、「べてるの家の理念」として、次のようなものが掲げられていました。
http://www18.ocn.ne.jp/~bethel/betheltoha.html
・三度の飯よりミーティング
・安心してサボれる職場づくり
・自分でつけよう自分の病気
・手を動かすより口を動かせ
・偏見差別大歓迎
・幻聴から幻聴さんへ
・場の力を信じる
・弱さを絆に
・べてるに染まれば商売繁盛
・弱さの情報公開
・公私混同大歓迎
・べてるに来れば病気が出る
・利益のないところを大切に
・勝手に治すな自分の病気
・そのまんまがいいみたい
・昇る人生から降りる人生へ
・苦労を取り戻す
・それで順調
この理念だけ見ても、ほのぼのとして癒されますよね。
成立の経緯を見てみましょう。
「べてるの家とは」
べてるの家は、1984年に設立された北海道浦河町にある精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点です。社会福祉法人浦河べてるの家、有限会社福祉ショップべてるなどの活動があり、総体として「べてる」と呼ばれています。そこで暮らす当事者達にとっては、生活共同体、働く場としての共同体、ケアの共同体という3つの性格を有しており、100名以上の当事者が地域で暮らしています。
「地域のために、日高昆布を全国に売ろう!」
べてるの家の歩みは、様々な悪条件を好条件とし活かしてきた歴史から生まれたものです。社会的な支援体制の乏しさや地域経済の弱体化が、精神障がいを抱えながら生きようとする当事者自身の生きづらさと重なり合ったとき、「地域のために、日高昆布を全国に売ろう」という起業の動機につながりました。
「浦河町とは」
北海道の東南、襟裳岬にほど近い人口1万5千人の町です。スローガンは「丘と海とまきば」。サラブレットや日高昆布で有名な町です。
これを読んだら、行ってみたくなりますね。
ウィキペディアを見てみると、次のような紹介もあります。
北海道日高地方特産の日高昆布の通販から始め、海産物、農産物の通販などいろいろな事業を起こしている。現在では、二つの授産施設も持っている。病気が重くなったり、生活や活動に支障が出てくることを、ここではごく普通のこととして捉える。それが当たり前、普通であって、驚いたり、嫌がったりしない。あるがままをそのまま受け入れてしまう、そんな生き方が「べてる流」としてケアに関係する人たちから注目を浴びている。べてるの住民たちは全国各地で講演活動もしている。その模様を撮影したビデオ(「べてるの家の当事者研究」など)も販売し、これも彼らの自立生活を経済的に支えている。
毎年、「べてるまつり」と呼ばれる催しが浦河で開催されており、「幻覚妄想大会」などユニークな企画が行われている。近年のべてるまつりには、佐藤初女や香山リカがゲストで参加している。また、筑紫哲也、上野千鶴子、田口ランディ、三好春樹なども過去にべてるを訪れている。
べてるの家の特徴ある取り組みとしては「当事者研究」が有名で、当事者の社会参加を支える充実した支援プログラム、投薬の量が全国平均の3分の1、病床数の削減など、先進的な取り組みがなされており、世界中から毎年3500人以上の研究者・見学者が訪れる。厚生労働省および国立精神・神経センターから、三鷹の巣立ち会、大阪のさわ病院等と共に、日本の精神保健におけるベストプラクティスのひとつに選ばれている。
名前の由来
「べてる(Bethel)」は旧約聖書・創世記に出てくる地名で、「神の家」という意味。 「べてる」は、ヘブライ聖書創世記でヤコブが天に達する階段の幻を見て神の祝福を受けた土地に命名した「ベテル」(bethel)、すなわち「神(エル)の家(ベート)」に由来している部分がある。
ドイツに古くから障害を持った人々が受け入れられ、暮らしている同名の街(ドイツ名: ベーテル)があり、第二次世界大戦中、ナチスが「優れた人間のみが生きる権利がある」との思想から、障害者を抹殺しようとした時、住民が「彼ら・彼女らを連れて行くのならば、私たちも連れて行け」と、命懸けで抵抗した。1984年、浦河教会の牧師だった宮島利光がこのドイツのエピソードをもとに、「べてるの家」と命名。
同サイトには、この施設を紹介したビデオ・DVD・書籍などが、たくさん取り上げられています。
その中には、横川和夫・著『降りていく生き方 「べてるの家」が歩む、もうひとつの道』(太郎次郎社 2003年)
も含まれています。
清水義晴さんは、『変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから』の中で、次のように書いています。
「私は、今後の日本の将来をなにがしかの希望を抱きながら考えるとき、べてるの家で育まれた知恵とその実践抜きに、それを思い描くことはできません。この国はすでに変革を始めている。そしてそれは小さな、中央から遠い、名もあまり知られていないようなまちから始まっているという、私の確信のもっとも象徴的な例が、北海道浦河町のべてるの家の活動です。
そのユニークな理念や組織運営の実践は、長い時間をかけてこの国のあり方に大きな影響を与えることになるでしょう。べてるの為していることは、現在の日本ではたしかにまだ風変わりではありますが、それを受け入れる下地はもうすでに整っていると私は考えています。べてるは〈弱さ〉や〈苦労〉といういままで否定的にしか語られていなかったものを、大いなる価値として見出し、活用したのでした」(P20)
いや、べてるの実践もさることながら、この清水さんの慧眼も凄いですね。それが実際に映画に活かされて、社会に大きな渦を巻き起こしつつあるわけですから。見事に次々バトン・タッチされていって、本当にこうして社会は変わっていくんですね。
“ローカル"“グループ"が、今は旬
「べてるの家」の前に、昨日行われたフィロソフィア「友愛と経済:スピリチュアリティを現実に生かすために」に参加して感じたことの報告をしておきたいと思います。
プログラムは、
☆第1部(13:30~16:00)
『映画「降りてゆく生き方」に見る「人と人のつながり」』 ( 講師:浅川博之)
コメントと栃木「そうぞうの輪」の活動の紹介(講師:伯宮 幸明)
☆第2部(16:15~18:00)
「スピリチュアリティとビジネス」 (講師:天野敦之)
☆第3部(18:30~20:30)「友愛の政治経済」(講師:小林正弥)
でしたが、その前の「降りてゆく生き方」上映会から続いて私的なブームだからかもしれませんが、今は「“ローカル”をはじめとする“グループ”問題が旬」という感じを、強くもちました。
どういうことか、というと・・・
何回も繰り返しになりますが、今まで私は「今回人類に課せられている課題は、個人の内面と社会の外面を、両方一気に転換することだ」と書いてきました。
その際の「社会」というのは最終的には「世界全体=グローバル」なんですが、具体的に(海外に出ない)私の中には「日本=ナショナル」というイメージが一番強くありました。
政治(学)の世界では、「ローカル・ナショナル・グローバルの、3つどれもが大切だ」といわれているようです。そのローカルの部分に対する意識が、弱かったわけです。
「懐かしい未来」のMLなどに入り、ローカルの重要性は認識しつつも、具体的な行動には移せず、したがってローカルのイメージも育っていませんでした。そういう意味で、今回、上映会準備でローカルに直接関われたことは、もの凄く大きな収穫でした。
「ローカル・ナショナル・グローバル」の間の関係を、私は(神智学的な体系の中で)“階層構造”と呼んでいます。それは*とりあえず「個人=パーソナル」からはじめると、「家族=ファミリー」からローカルへと至るわけで、政治(学)ではパーソナル・ファミリーのレベルは、あまり考慮されていない、ということでしょう。(*とりあえず、と書いたのは、個人以下のレベルとして、組織器官・細胞・分子・原子…とミクロの方に続いていく階層構造もあるからです。)
また、実際の生活では学校や企業のような単位の方が重要になります。特に現在の世界は、政治ではなく経済によって支配され、国家ではなくグローバル企業の方が大きな力をもっているということもあり、政治的単位に並列して存在する階層構造も考えなければいけません。それで、“ローカル”などの代わりに、より一般化した階層構造的な見方として、「パーソナルとグローバルの間に、幾つかの段階の“グループ”が存在する」という表現にした方がいいともいえますが、以下ではとりあえず政治的階層構造の言葉を使って、議論を進めることにします。
さて、「個人の内面と社会の外面」がともに変わっていくプロセスというのがどういうものなのか? 実はこれに対するイメージが私はこれまで希薄だったんですが、それがある程度見えてきた感じがするのです。
今までは漠然と、個人と世界全体が一遍に変わるみたいなイメージしかありませんでした。「マイトレーヤの登場」とか「アセンション」とか、というのがその刺激になって、一遍に変わる、ってい感じですね。
しかし、現実的に考えた場合、「変革というのは、階層構造にしたがってステップ・バイ・ステップで起きてくる」、と考えるべきではないか、と思います。
前回取り上げた清水義晴さんの「物事は最初は何でも一人です」という言葉も、それを示唆しています。
カリスマ的リーダーが出て、それが頂点に立って、トップ・ダウンで一気に変わるというケースにおいては、その現象は観察しにくいわけですが、オバマの登場にしても、最初は一個人が気づき、その周囲が動き、その輪が国全体に広がって、大統領に当選したわけです。
そのメカニズムというのは、エネルギー的な捉え方、「場」の考え方を使うと、よく分かります。これも、清水さんの『変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから』を読んで、気づいたことです。
まず、パーソナルなレベルでの気づき・変革(あるいは最初からそういう存在として生まれた場合もあると思いますが)が起きます。
それが、周囲の人、縁のある人に伝わります。最初の一人のエネルギーを受けて、その人たち(これを便宜上、ファミリーと呼びます)が変わります。
最初に変革したファミリーが、ローカル・レベルに影響を及ぼし、同様の変革を誘発していきます。ジワジワとエネルギーが伝わって、場が高まり、それが一つ上の単位全体の変革を可能にしていく感じです。
逆に、一気にナショナル・レベルの変革は、起きにくいでしょう。クーデターであるとか革命であると、一気にそういったことが起きる場合がありますが、その場合、下位のレベルが煮詰まっていたいと、そこで起きた変革は不安定ですぐに崩壊し、元に逆戻りするでしょう。
国全体を眺めたとき、エネルギーが高く変革が進んでいる地域もあれば、エネルギーが低くて変革が進んでいない地域もあるわけです。その総和・アベレージとして、国の状態が決まるのであって、地域の最先端を飛び越えて国の変革が進む、ということはあり得ないわけです。
してみると、現在、大きな社会変革が起きつつある、ということは皆感じているわけですから、それがどのレベルまで来ているか、ということが問題になるわけです。
本当に今年に入って急激に、誰の口からも「このままじゃいけないわね」「社会、変えなきゃね」という言葉が聞かれるようになりました。
これから考えて、パーソナル(およびファミリー)・レベルの変革は一定水準に達した、と見ていいのではないか、と思います。これを清水氏はどこかで「これまでに、市民は底力をつけてきた」というような表現をしていたと思います。
個人からボトム・アップされてきて、今、各所でローカル・レベルの変革が起きようとしているのだと思います。それを促進しているのが「懐かしい未来」のネット・ワークであるとか、「降りてゆく生き方」の作りだしているムーヴメントなどだと思います。
この映画があれだけ共感を呼んでいるのは、その普遍的な価値にプラスして、今、日本人全体が求めているローカル・レベルの変革のタイミングとピッタリ一致したからではないか、という気がしています。
おそらく、そのレベルの変革が今年の日本のテーマでしょう。それをベースに、日本中がエネルギー・アップして、ナショナル・レベルの本当の変革が来年起こり、それを受けて再来年、2012年にグローバル・レベルの変革が完了する、というようなシナリオも考えられますね。
とすると、今年は地域問題に取組むべき年ということになるのかもしれません。この地域問題、今回体験してみて、また昨日小林氏ともちょっと話してみて、中心になって活躍するのは女性、もうちょっと正確には、女性性を復活させることだと思います。
国や世界レベルの問題は、やはり男性(性)が中心になると思います。そこでは、最高水準の知的な判断というのが重要であり、議論もその水準でなされるわけです。
しかし、地域の問題は、知的な議論よりも感情的問題を愛と包容力をもって解決し、結びつきを取り戻し、絆をつくっていくことによって解決されるので、女性(性)が重要になるわけです。男性(性)はもっと大きな視点から方向性を見失わないように見守るアドヴァイザー的な立場にいるべきでしょう。
その、女性(性)と男性(性)の関係(知性と感情の協働)をうまくつくれるかが、ローカル・レベルの変革をうまく進められるかのカギを握っている感じがします。
そしてこれは、そのあとに控えているナショナルやグローバルのレベルよりも難しい、最難関の問題のように思います。
ということは、今年が、そして今が、人類史上最大の変革のまさに「ターニング・ポイント」なのかもしれませんね。
プログラムは、
☆第1部(13:30~16:00)
『映画「降りてゆく生き方」に見る「人と人のつながり」』 ( 講師:浅川博之)
コメントと栃木「そうぞうの輪」の活動の紹介(講師:伯宮 幸明)
☆第2部(16:15~18:00)
「スピリチュアリティとビジネス」 (講師:天野敦之)
☆第3部(18:30~20:30)「友愛の政治経済」(講師:小林正弥)
でしたが、その前の「降りてゆく生き方」上映会から続いて私的なブームだからかもしれませんが、今は「“ローカル”をはじめとする“グループ”問題が旬」という感じを、強くもちました。
どういうことか、というと・・・
何回も繰り返しになりますが、今まで私は「今回人類に課せられている課題は、個人の内面と社会の外面を、両方一気に転換することだ」と書いてきました。
その際の「社会」というのは最終的には「世界全体=グローバル」なんですが、具体的に(海外に出ない)私の中には「日本=ナショナル」というイメージが一番強くありました。
政治(学)の世界では、「ローカル・ナショナル・グローバルの、3つどれもが大切だ」といわれているようです。そのローカルの部分に対する意識が、弱かったわけです。
「懐かしい未来」のMLなどに入り、ローカルの重要性は認識しつつも、具体的な行動には移せず、したがってローカルのイメージも育っていませんでした。そういう意味で、今回、上映会準備でローカルに直接関われたことは、もの凄く大きな収穫でした。
「ローカル・ナショナル・グローバル」の間の関係を、私は(神智学的な体系の中で)“階層構造”と呼んでいます。それは*とりあえず「個人=パーソナル」からはじめると、「家族=ファミリー」からローカルへと至るわけで、政治(学)ではパーソナル・ファミリーのレベルは、あまり考慮されていない、ということでしょう。(*とりあえず、と書いたのは、個人以下のレベルとして、組織器官・細胞・分子・原子…とミクロの方に続いていく階層構造もあるからです。)
また、実際の生活では学校や企業のような単位の方が重要になります。特に現在の世界は、政治ではなく経済によって支配され、国家ではなくグローバル企業の方が大きな力をもっているということもあり、政治的単位に並列して存在する階層構造も考えなければいけません。それで、“ローカル”などの代わりに、より一般化した階層構造的な見方として、「パーソナルとグローバルの間に、幾つかの段階の“グループ”が存在する」という表現にした方がいいともいえますが、以下ではとりあえず政治的階層構造の言葉を使って、議論を進めることにします。
さて、「個人の内面と社会の外面」がともに変わっていくプロセスというのがどういうものなのか? 実はこれに対するイメージが私はこれまで希薄だったんですが、それがある程度見えてきた感じがするのです。
今までは漠然と、個人と世界全体が一遍に変わるみたいなイメージしかありませんでした。「マイトレーヤの登場」とか「アセンション」とか、というのがその刺激になって、一遍に変わる、ってい感じですね。
しかし、現実的に考えた場合、「変革というのは、階層構造にしたがってステップ・バイ・ステップで起きてくる」、と考えるべきではないか、と思います。
前回取り上げた清水義晴さんの「物事は最初は何でも一人です」という言葉も、それを示唆しています。
カリスマ的リーダーが出て、それが頂点に立って、トップ・ダウンで一気に変わるというケースにおいては、その現象は観察しにくいわけですが、オバマの登場にしても、最初は一個人が気づき、その周囲が動き、その輪が国全体に広がって、大統領に当選したわけです。
そのメカニズムというのは、エネルギー的な捉え方、「場」の考え方を使うと、よく分かります。これも、清水さんの『変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから』を読んで、気づいたことです。
まず、パーソナルなレベルでの気づき・変革(あるいは最初からそういう存在として生まれた場合もあると思いますが)が起きます。
それが、周囲の人、縁のある人に伝わります。最初の一人のエネルギーを受けて、その人たち(これを便宜上、ファミリーと呼びます)が変わります。
最初に変革したファミリーが、ローカル・レベルに影響を及ぼし、同様の変革を誘発していきます。ジワジワとエネルギーが伝わって、場が高まり、それが一つ上の単位全体の変革を可能にしていく感じです。
逆に、一気にナショナル・レベルの変革は、起きにくいでしょう。クーデターであるとか革命であると、一気にそういったことが起きる場合がありますが、その場合、下位のレベルが煮詰まっていたいと、そこで起きた変革は不安定ですぐに崩壊し、元に逆戻りするでしょう。
国全体を眺めたとき、エネルギーが高く変革が進んでいる地域もあれば、エネルギーが低くて変革が進んでいない地域もあるわけです。その総和・アベレージとして、国の状態が決まるのであって、地域の最先端を飛び越えて国の変革が進む、ということはあり得ないわけです。
してみると、現在、大きな社会変革が起きつつある、ということは皆感じているわけですから、それがどのレベルまで来ているか、ということが問題になるわけです。
本当に今年に入って急激に、誰の口からも「このままじゃいけないわね」「社会、変えなきゃね」という言葉が聞かれるようになりました。
これから考えて、パーソナル(およびファミリー)・レベルの変革は一定水準に達した、と見ていいのではないか、と思います。これを清水氏はどこかで「これまでに、市民は底力をつけてきた」というような表現をしていたと思います。
個人からボトム・アップされてきて、今、各所でローカル・レベルの変革が起きようとしているのだと思います。それを促進しているのが「懐かしい未来」のネット・ワークであるとか、「降りてゆく生き方」の作りだしているムーヴメントなどだと思います。
この映画があれだけ共感を呼んでいるのは、その普遍的な価値にプラスして、今、日本人全体が求めているローカル・レベルの変革のタイミングとピッタリ一致したからではないか、という気がしています。
おそらく、そのレベルの変革が今年の日本のテーマでしょう。それをベースに、日本中がエネルギー・アップして、ナショナル・レベルの本当の変革が来年起こり、それを受けて再来年、2012年にグローバル・レベルの変革が完了する、というようなシナリオも考えられますね。
とすると、今年は地域問題に取組むべき年ということになるのかもしれません。この地域問題、今回体験してみて、また昨日小林氏ともちょっと話してみて、中心になって活躍するのは女性、もうちょっと正確には、女性性を復活させることだと思います。
国や世界レベルの問題は、やはり男性(性)が中心になると思います。そこでは、最高水準の知的な判断というのが重要であり、議論もその水準でなされるわけです。
しかし、地域の問題は、知的な議論よりも感情的問題を愛と包容力をもって解決し、結びつきを取り戻し、絆をつくっていくことによって解決されるので、女性(性)が重要になるわけです。男性(性)はもっと大きな視点から方向性を見失わないように見守るアドヴァイザー的な立場にいるべきでしょう。
その、女性(性)と男性(性)の関係(知性と感情の協働)をうまくつくれるかが、ローカル・レベルの変革をうまく進められるかのカギを握っている感じがします。
そしてこれは、そのあとに控えているナショナルやグローバルのレベルよりも難しい、最難関の問題のように思います。
ということは、今年が、そして今が、人類史上最大の変革のまさに「ターニング・ポイント」なのかもしれませんね。
清水義晴氏との運命的な出会い
映画『降りてゆく生き方』の制作過程で決定的な転機となったのが、制作スタッフが「脚本開発の為に全国で具体的なまちづくりの現状と事例、それに関わった多くの方々への長期的な取材を通して、『変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから』(太郎次郎社)という書籍にたどりつい」たことのようです。
上記、および以下、「映画『降りてゆく生き方』:作品概要」
http://www.nippon-p.org/mov-intro.html からの引用です。
まちづくりの達人:「清水義晴」氏との運命的な出会い
(上記「」内引用からの続き)
それは、まちづくりの達人として有名な清水義晴氏(元:博進堂代表取締役社長、現:えにし屋代表)との私たちとの出会いへと誘うものでした。
新潟県での長年まちづくり活動にとどまらず、学校や教育、福祉や介護や医療、自然保護活動、企業活動などを包含したより広い分野における事業プロデュースを行い、飛躍的な成果を数多く残す一方、精神障害者の自立支援施設である北海道・浦河の「べてるの家」を全国へ伝えた事でも話題となりました。
その他にも、本人の著書にも一部書かれているように、2002年には新潟市長選挙の選対本部長をつとめ、まちづくりの手法をとりいれた「仲間づくりの選挙」を実践し、篠田昭氏を見事当選へと導く快挙を達成しています。
近年、清水義晴氏は脳内出血で倒れ、車椅子での生活を送っています。しかし、家族、地域、そしてこれまで一緒にまちづくりに取り組んできた世代を越えた全国の方々の支えと、情熱によって、元気を取り戻しました。
そして清水義晴氏は、「新潟を日本一の福祉都市へしたい」と熱く語っています。
苦境にも果敢に立ち向かい、自ら「降りてゆく生き方」を実践する清水義晴氏を、私たちはエグゼクティブ・プロデューサーに迎え、本映画をより深め、本質に根ざしたものとすることができたのでした。
ということで、この映画は清水義晴氏のまちづくりの思想を核に、たくさんの方たちへのインタヴューや文献を参照しながらつくられていった、と考えていいようです。
この清水義晴氏は、どんな人なのでしょうか?
上記HPの一番下にある「夢縁ムービー(ダイジェスト映像Part-1)」から、少しその姿を垣間見ることができます。
その最初に「物事は最初は何でも一人です」という言葉が出てきます。
「世の中を良くするのも、悪くするのも、ただこの一人からです」とのこと。少し前に紹介した、自殺問題に取組む清水康之氏も、本当に一人から始めましたよね。まちおこしも、同じなんですね。
(ところで、2人とも清水さんなんですよね・・・「いのちの水を運ぶ者」=アクエリアス時代の変革者・・・偶然の一致なのでしょうか! 驚きです。)
最初に、制作スタッフが『変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから』という本に辿りついた、ということから、この本はまちづくりの人たちの中で話題になっていた本なのでしょうね。
このタイトルを考えてみると、「変革は弱いところから」・・・これも自殺問題をみても分かりますね。
「小さいところから」・・・これは人数が少ない、マイノリティからいうこともあります。それから些細なことの積み重ねということもある。非常に敏感な問題意識をもつ一人の人がキャッチするところから、始まるということもあるでしょうね。
「遠いところから」・・・明治維新がそうだったように、お上の目が届きにくい。福祉の面から見れば、やはり一番忘れられ、サービスも受けられず、取り残されているからでしょうね。
「弱いところ、小さいところ、遠いところ」この3拍子が揃ったら、社会福祉から最も阻害されるのは目に見えてます。これはやっぱり、厳しいですよね。普通だったらブっ潰れになるところ、生き延びるためには革新的な取組みが不可欠の条件になってくることは、当然、考えられますね。
一方で、その変革を妨害する力も、働きにくい。
ですから、これは論理にかなっているということになりますね。
「弱いところにしわ寄せが集まっている現在の事態をみれば、この先わたしたちにどんな希望を抱けというのかと、叫んでみたくもなります。しかし、私がこの本で語ってきたことは、それでも(にもかかわらず、と言った方がいいでしょうか)十分、希望はあるということです。そしてその希望の光は、まさに私たちの社会が切り捨てようとしている弱いところ、小さいところ、遠いところにこそ射しています。
北海道・浦河町という中央から遠く離れた小さなまちで、社会からの理解を得ることがきわめてむずかしい精神障害者の人たちがつくった、べてるの家はその好例です。」(前掲書P178)
「べてるの家」、どんなところなのでしょうか?
明日以降、それを追ってみたいと思います。
上記、および以下、「映画『降りてゆく生き方』:作品概要」
http://www.nippon-p.org/mov-intro.html からの引用です。
まちづくりの達人:「清水義晴」氏との運命的な出会い
(上記「」内引用からの続き)
それは、まちづくりの達人として有名な清水義晴氏(元:博進堂代表取締役社長、現:えにし屋代表)との私たちとの出会いへと誘うものでした。
新潟県での長年まちづくり活動にとどまらず、学校や教育、福祉や介護や医療、自然保護活動、企業活動などを包含したより広い分野における事業プロデュースを行い、飛躍的な成果を数多く残す一方、精神障害者の自立支援施設である北海道・浦河の「べてるの家」を全国へ伝えた事でも話題となりました。
その他にも、本人の著書にも一部書かれているように、2002年には新潟市長選挙の選対本部長をつとめ、まちづくりの手法をとりいれた「仲間づくりの選挙」を実践し、篠田昭氏を見事当選へと導く快挙を達成しています。
近年、清水義晴氏は脳内出血で倒れ、車椅子での生活を送っています。しかし、家族、地域、そしてこれまで一緒にまちづくりに取り組んできた世代を越えた全国の方々の支えと、情熱によって、元気を取り戻しました。
そして清水義晴氏は、「新潟を日本一の福祉都市へしたい」と熱く語っています。
苦境にも果敢に立ち向かい、自ら「降りてゆく生き方」を実践する清水義晴氏を、私たちはエグゼクティブ・プロデューサーに迎え、本映画をより深め、本質に根ざしたものとすることができたのでした。
ということで、この映画は清水義晴氏のまちづくりの思想を核に、たくさんの方たちへのインタヴューや文献を参照しながらつくられていった、と考えていいようです。
この清水義晴氏は、どんな人なのでしょうか?
上記HPの一番下にある「夢縁ムービー(ダイジェスト映像Part-1)」から、少しその姿を垣間見ることができます。
その最初に「物事は最初は何でも一人です」という言葉が出てきます。
「世の中を良くするのも、悪くするのも、ただこの一人からです」とのこと。少し前に紹介した、自殺問題に取組む清水康之氏も、本当に一人から始めましたよね。まちおこしも、同じなんですね。
(ところで、2人とも清水さんなんですよね・・・「いのちの水を運ぶ者」=アクエリアス時代の変革者・・・偶然の一致なのでしょうか! 驚きです。)
最初に、制作スタッフが『変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから』という本に辿りついた、ということから、この本はまちづくりの人たちの中で話題になっていた本なのでしょうね。
このタイトルを考えてみると、「変革は弱いところから」・・・これも自殺問題をみても分かりますね。
「小さいところから」・・・これは人数が少ない、マイノリティからいうこともあります。それから些細なことの積み重ねということもある。非常に敏感な問題意識をもつ一人の人がキャッチするところから、始まるということもあるでしょうね。
「遠いところから」・・・明治維新がそうだったように、お上の目が届きにくい。福祉の面から見れば、やはり一番忘れられ、サービスも受けられず、取り残されているからでしょうね。
「弱いところ、小さいところ、遠いところ」この3拍子が揃ったら、社会福祉から最も阻害されるのは目に見えてます。これはやっぱり、厳しいですよね。普通だったらブっ潰れになるところ、生き延びるためには革新的な取組みが不可欠の条件になってくることは、当然、考えられますね。
一方で、その変革を妨害する力も、働きにくい。
ですから、これは論理にかなっているということになりますね。
「弱いところにしわ寄せが集まっている現在の事態をみれば、この先わたしたちにどんな希望を抱けというのかと、叫んでみたくもなります。しかし、私がこの本で語ってきたことは、それでも(にもかかわらず、と言った方がいいでしょうか)十分、希望はあるということです。そしてその希望の光は、まさに私たちの社会が切り捨てようとしている弱いところ、小さいところ、遠いところにこそ射しています。
北海道・浦河町という中央から遠く離れた小さなまちで、社会からの理解を得ることがきわめてむずかしい精神障害者の人たちがつくった、べてるの家はその好例です。」(前掲書P178)
「べてるの家」、どんなところなのでしょうか?
明日以降、それを追ってみたいと思います。
上映会は、プレ上映会
昨日の映画『降りてゆく生き方』上映会、東京の外れの江戸川区小岩、駅から10分以上もかかる会場に、冷たい雨の降る中、平日午前・午後・夜間の3回の上映に合計350人もの方々がお越しくださいました。
今回は準備期間も少なかったため、私は最初から人数も気にせずにできるだけのことをやろうという気持ちで臨みましたが、漠然とした予想としては、200人集まれば成功というような雰囲気が、準備スタッフの中にはあったと思います。
いまは映画業界も不況のあおりを受けて苦戦を強いられているようですが、そんな中でのこの数字は、かなり驚いていいようです。
色々な人たちにこの映画のことを紹介していく中で、その反応によってその人たちのもっている価値観のようなものが垣間見れる感じがしました。そして、この人ならと思う人からは、(すでに知っている人たちも多かったのですが)大体において予想以上のいい反応が返ってきて、この映画の話題をきっかけに、「本当に世の中よくしていかなきゃいけないですよね」という会話に花が咲き、それまでは「何となくあの人とは話ができそうだな」くらいの“点線”のようなつながりだったものが、“実線”になり、会場に来て実際に映画を見ていただいた方とはそれが“パイプ”のような(グループ意識の)絆になった感じがします。
そういうパイプが1日で何百本とつくられたというのは凄いことだと思いますし、それが社会の底力につながっていくんだなあ、と実感できた1日でした。
それをもっとたくさん増やしドンドン太くすればいいんだ、っていう現実的なイメージができたことも、私にとっては大きな収穫でした。
映画自体を見るのは、私は市川に続き、2回目でした。
私は目が疲れやすいこともあり、普段は映画もほとんど見ません。
同じ映画を2回見たのは、生まれて初めての経験でした。しかし、読書と同じように、やっぱり同じものを2回みると、理解がグンと深まりますね。その程度は、読書のとき以上のような気がします。
それは、映像がつくと同じ時間に流れる情報量が何倍にも何十倍にもなるからだと思います。最初に見たときは大雑把なストーリーを追うだけで精一杯だけれど、2回目は、制作時に参考にした様々な本やインタヴューなどがどのように生かされているかとか、1コマ1コマに込められた思いや工夫などを読み解いていく余裕ができて、映画を構成している様々な要素間のネットワークが、急激に読み解いていけるようになります。
こんなことは、映画好きの方には、語るのも恥ずかしいような初歩的な気づきなのでしょうが。
私の場合、実は、1回目の市川のときの正直な感想は、「思ったほどでもないな」とちょっとガッカリしたところがありました。それは、プレ上映会とかこのムーヴメント全体があまりにも素晴らしく思えたので、作品に対しても過剰な期待をしていたのだと思います。
シナリオにしても、全国での様々な優れた実践をつなげていったような感じなので、多少不自然さがあったり、出演者もプロの役者は10人に満たず、地元で名乗りをあげたボランティアのエキストラをのべ2000人・日くらい使って、その人たちができることを活かしながらシナリオをつくりかえていった、というようなこともあるので、演技の点でも素人くさいところ(ではなく本当の素人)が多々あるのはしょうがないことです。
脚本や出演者をそのようにしたところにも大きな意義があるので、その辺は最初からちゃんと割り引いて見なければいけなかったのですが、ちょっと無理な要求水準で前回は見てしまった、と思っていました。
今回はその辺をちゃんと分かった上で見たので、気持ちよく見れ、改めていい映画だなあ、と思いました。人間でもよく言われますが、悪いところは気にせず良いところだけを見るようにした方が、得られるところも多いし、幸せな気分になれるということを、改めて確認させてもらいました。
また、昨日は1日、ホールのある施設にいて、お客さんの出入りする時間以外は、のんびりと施設の様子を眺める時間がもてました。
普段、ここには太極拳に来ているのですが、その際はかけ込んで来て終わったらすぐ帰るという感じで、他の利用者の姿などゆっくり見ることもなかったのですが、楽しそうに来ては活動を終えて帰っていく姿をみても、地域の人のつながりはいいもんだなあ、大切だなあ、としみじみ味わう時間がもてました。
その感じが、映画の中身とオーバーラップしていて、映画と現実が境目なく溶け込んでいる感じがしたのも面白かった。
これは、「アバター症候群」といわれる、映画の中の理想郷に陶酔したあと現実にうまく戻れなかったり幻滅したり、というのとはまったく逆の現象ですね。
上映会にいたる全プロセスも手伝って、バーチャルとリアルの境目がなくなって、それゆえ、映画に描かれた理想的イメージを現実化する力をもつのではないか、とも感じました。
私たちの街づくり、社会づくりにとって、昨日の上映会は終わりではなく、“プレ上映会”であって、これからが現実を舞台にして自分たちで演じる本番の始まりにすべきなのだと思います。
明後日は早速、これに関連して、「友愛と経済:スピリチュアリティを現実に生かすために」をテーマにしたフィロソフィアの集まりがあります。詳細は、3月11日ブログをご覧ください。
今回は準備期間も少なかったため、私は最初から人数も気にせずにできるだけのことをやろうという気持ちで臨みましたが、漠然とした予想としては、200人集まれば成功というような雰囲気が、準備スタッフの中にはあったと思います。
いまは映画業界も不況のあおりを受けて苦戦を強いられているようですが、そんな中でのこの数字は、かなり驚いていいようです。
色々な人たちにこの映画のことを紹介していく中で、その反応によってその人たちのもっている価値観のようなものが垣間見れる感じがしました。そして、この人ならと思う人からは、(すでに知っている人たちも多かったのですが)大体において予想以上のいい反応が返ってきて、この映画の話題をきっかけに、「本当に世の中よくしていかなきゃいけないですよね」という会話に花が咲き、それまでは「何となくあの人とは話ができそうだな」くらいの“点線”のようなつながりだったものが、“実線”になり、会場に来て実際に映画を見ていただいた方とはそれが“パイプ”のような(グループ意識の)絆になった感じがします。
そういうパイプが1日で何百本とつくられたというのは凄いことだと思いますし、それが社会の底力につながっていくんだなあ、と実感できた1日でした。
それをもっとたくさん増やしドンドン太くすればいいんだ、っていう現実的なイメージができたことも、私にとっては大きな収穫でした。
映画自体を見るのは、私は市川に続き、2回目でした。
私は目が疲れやすいこともあり、普段は映画もほとんど見ません。
同じ映画を2回見たのは、生まれて初めての経験でした。しかし、読書と同じように、やっぱり同じものを2回みると、理解がグンと深まりますね。その程度は、読書のとき以上のような気がします。
それは、映像がつくと同じ時間に流れる情報量が何倍にも何十倍にもなるからだと思います。最初に見たときは大雑把なストーリーを追うだけで精一杯だけれど、2回目は、制作時に参考にした様々な本やインタヴューなどがどのように生かされているかとか、1コマ1コマに込められた思いや工夫などを読み解いていく余裕ができて、映画を構成している様々な要素間のネットワークが、急激に読み解いていけるようになります。
こんなことは、映画好きの方には、語るのも恥ずかしいような初歩的な気づきなのでしょうが。
私の場合、実は、1回目の市川のときの正直な感想は、「思ったほどでもないな」とちょっとガッカリしたところがありました。それは、プレ上映会とかこのムーヴメント全体があまりにも素晴らしく思えたので、作品に対しても過剰な期待をしていたのだと思います。
シナリオにしても、全国での様々な優れた実践をつなげていったような感じなので、多少不自然さがあったり、出演者もプロの役者は10人に満たず、地元で名乗りをあげたボランティアのエキストラをのべ2000人・日くらい使って、その人たちができることを活かしながらシナリオをつくりかえていった、というようなこともあるので、演技の点でも素人くさいところ(ではなく本当の素人)が多々あるのはしょうがないことです。
脚本や出演者をそのようにしたところにも大きな意義があるので、その辺は最初からちゃんと割り引いて見なければいけなかったのですが、ちょっと無理な要求水準で前回は見てしまった、と思っていました。
今回はその辺をちゃんと分かった上で見たので、気持ちよく見れ、改めていい映画だなあ、と思いました。人間でもよく言われますが、悪いところは気にせず良いところだけを見るようにした方が、得られるところも多いし、幸せな気分になれるということを、改めて確認させてもらいました。
また、昨日は1日、ホールのある施設にいて、お客さんの出入りする時間以外は、のんびりと施設の様子を眺める時間がもてました。
普段、ここには太極拳に来ているのですが、その際はかけ込んで来て終わったらすぐ帰るという感じで、他の利用者の姿などゆっくり見ることもなかったのですが、楽しそうに来ては活動を終えて帰っていく姿をみても、地域の人のつながりはいいもんだなあ、大切だなあ、としみじみ味わう時間がもてました。
その感じが、映画の中身とオーバーラップしていて、映画と現実が境目なく溶け込んでいる感じがしたのも面白かった。
これは、「アバター症候群」といわれる、映画の中の理想郷に陶酔したあと現実にうまく戻れなかったり幻滅したり、というのとはまったく逆の現象ですね。
上映会にいたる全プロセスも手伝って、バーチャルとリアルの境目がなくなって、それゆえ、映画に描かれた理想的イメージを現実化する力をもつのではないか、とも感じました。
私たちの街づくり、社会づくりにとって、昨日の上映会は終わりではなく、“プレ上映会”であって、これからが現実を舞台にして自分たちで演じる本番の始まりにすべきなのだと思います。
明後日は早速、これに関連して、「友愛と経済:スピリチュアリティを現実に生かすために」をテーマにしたフィロソフィアの集まりがあります。詳細は、3月11日ブログをご覧ください。
明日、『降りてゆく生き方』上映会で待ってます
明日は、いよいよ地元・小岩での『降りてゆく生き方』上映会です。
午前・午後・夜間の3回上映で、まだ席に余裕はありますので、お近くでお時間ある方は是非お越しください。詳細は、3月1日「真のホリスティック教育とは」の最後をご参照のほど。
この日に向けて、1ヵ月間のキャンペーンをお手伝いしました。セミナー・イヴェントに向けての集客にはかなりの経験があり、今回もそれを踏襲して、ブログや全国ネットのMLの幾つかに情報を流しましたが、やはりメインは地元での広報活動です。
こちらは正直、横着者の私にはあまり出番がなく、私の周りに関していうと、家内とその友人の活躍を、指をくわえて見ているという感じでした。こういうのは、女性パワーが強いですね。やはり、向き不向きというか、お互いを尊重しつつ、お互いの特性を活かしてうまく分業していくことの重要性を改めて感じました。
本当に、そういう意味では、学ぶところの多い経験をさせてもらいました。
一例を挙げてみると、ポスティングです。
会場近く=私の自宅の近辺に、チラシを入れて回ろうということになったのです。この周辺は東京の果てで、すぐ傍の江戸川を隔てて、向こうは千葉県です。片側が川で堰き止められているため発展しようがなく、それゆえ逆に昔ながら静かな環境や地域の結びつきも多少は残っています。
そんなところに3月3日に「女性たちの勇気ある行動」で書いた「スーパー堤防」なる計画がもちあがって、今まで仲良かった人たちが賛成派と反対派に分かれて争うようなことまで起きているのです。
そういったことも、今回関わってはじめて詳しい事情を知ったのですが。
今回の上映会は、そういった地域の状況を踏まえ、これを機にもう一度皆の絆を取り戻そうということで、江戸川区議会議員の上田令子さんが発案したものでした。
もちろん、推薦できる映画だからやっていることですが、本来の狙いは、それを活用させていただいての、地域・社会の再生です。
そんな目的の中で行われたポスティング。
私は、ポスティングっていうのは、よく私の視線から逃れるようにして家のポストにチラシを入れていく人を見ていたので、嫌がられながらノルマをこなしていく作業だと思っていました。そして例によって、時間を無駄にしないように、吹き込んだテープをヘッドフォンで聞きながら、タンタンをポストに入れていきました。
ポストにしても、入れにくいの、入れやすいの、色んなタイプのものがあるんだなあ、と、そんな今まで気づかなかった発見を少し誇らしげに思いながら。
で、2時間弱が経って、皆と打ち合わせた昼食の場所にいって他の人たちの話を聞いたらビックリ! 上田さんなんか、これはと思う家にはピンポンしてまで1件1件、対話しながら回っていたとのこと。彼女だけではなく、他の人たちも、犬の散歩したりしてすれ違った人たちに声を掛けていたんです。
そういう対話から、人間的なコミュニケーションが生まれるんですね。それが、何もないときにはやりにくいけど、映画のチラシ1枚もっただけで自然にできるようになる。
武田鉄矢・主演だから、宗教の布教活動と間違えられることもない。
20年くらい前に、「シンク・グローバル アクト・ローカル」という言葉を聞いて納得し、そのときは成り行きで武道の道場を任されて、見よう見まねで地域活動的なこともやっていましたが、元来、抽象的な思考に走る傾向があるので、「シンク・グローバル」の方はできても、「アクト・ローカル」の方はまったくでした。(家人には、「アクト・ファミリー」や「アクト・セルフ」もできてないといわれそう。)
これを機に、少しその辺も見直さないと(と書きながら、3日坊主になりそうな予感・・・これに関しては、かなり弱気です。)
午前・午後・夜間の3回上映で、まだ席に余裕はありますので、お近くでお時間ある方は是非お越しください。詳細は、3月1日「真のホリスティック教育とは」の最後をご参照のほど。
この日に向けて、1ヵ月間のキャンペーンをお手伝いしました。セミナー・イヴェントに向けての集客にはかなりの経験があり、今回もそれを踏襲して、ブログや全国ネットのMLの幾つかに情報を流しましたが、やはりメインは地元での広報活動です。
こちらは正直、横着者の私にはあまり出番がなく、私の周りに関していうと、家内とその友人の活躍を、指をくわえて見ているという感じでした。こういうのは、女性パワーが強いですね。やはり、向き不向きというか、お互いを尊重しつつ、お互いの特性を活かしてうまく分業していくことの重要性を改めて感じました。
本当に、そういう意味では、学ぶところの多い経験をさせてもらいました。
一例を挙げてみると、ポスティングです。
会場近く=私の自宅の近辺に、チラシを入れて回ろうということになったのです。この周辺は東京の果てで、すぐ傍の江戸川を隔てて、向こうは千葉県です。片側が川で堰き止められているため発展しようがなく、それゆえ逆に昔ながら静かな環境や地域の結びつきも多少は残っています。
そんなところに3月3日に「女性たちの勇気ある行動」で書いた「スーパー堤防」なる計画がもちあがって、今まで仲良かった人たちが賛成派と反対派に分かれて争うようなことまで起きているのです。
そういったことも、今回関わってはじめて詳しい事情を知ったのですが。
今回の上映会は、そういった地域の状況を踏まえ、これを機にもう一度皆の絆を取り戻そうということで、江戸川区議会議員の上田令子さんが発案したものでした。
もちろん、推薦できる映画だからやっていることですが、本来の狙いは、それを活用させていただいての、地域・社会の再生です。
そんな目的の中で行われたポスティング。
私は、ポスティングっていうのは、よく私の視線から逃れるようにして家のポストにチラシを入れていく人を見ていたので、嫌がられながらノルマをこなしていく作業だと思っていました。そして例によって、時間を無駄にしないように、吹き込んだテープをヘッドフォンで聞きながら、タンタンをポストに入れていきました。
ポストにしても、入れにくいの、入れやすいの、色んなタイプのものがあるんだなあ、と、そんな今まで気づかなかった発見を少し誇らしげに思いながら。
で、2時間弱が経って、皆と打ち合わせた昼食の場所にいって他の人たちの話を聞いたらビックリ! 上田さんなんか、これはと思う家にはピンポンしてまで1件1件、対話しながら回っていたとのこと。彼女だけではなく、他の人たちも、犬の散歩したりしてすれ違った人たちに声を掛けていたんです。
そういう対話から、人間的なコミュニケーションが生まれるんですね。それが、何もないときにはやりにくいけど、映画のチラシ1枚もっただけで自然にできるようになる。
武田鉄矢・主演だから、宗教の布教活動と間違えられることもない。
20年くらい前に、「シンク・グローバル アクト・ローカル」という言葉を聞いて納得し、そのときは成り行きで武道の道場を任されて、見よう見まねで地域活動的なこともやっていましたが、元来、抽象的な思考に走る傾向があるので、「シンク・グローバル」の方はできても、「アクト・ローカル」の方はまったくでした。(家人には、「アクト・ファミリー」や「アクト・セルフ」もできてないといわれそう。)
これを機に、少しその辺も見直さないと(と書きながら、3日坊主になりそうな予感・・・これに関しては、かなり弱気です。)
アセンション信奉者との対話
長年付き合いのある方で、「創造主によるアセンション」を確信されている方との間で、自分の立場を明確にしなければいけない状況ができたので、メールでやり取りしました(2通)。
このブログを読まれている方にも、私の現在の立場を要約してご理解いただくのに役立つかと思い、多少表現を変えたところがありますが、ご参考まで掲載させていただきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私も、今一番重要な問題に関しては同じく、「人類・地球は救えるか?」という問題だと思っております。
それには、個人の内面と社会の外面(システム)をどうやって同時に転換できるか? ということがポイントだと思っています。
個人の内面の転換には、インドのヨーガが、一番深い科学的アプローチをもっています。
社会の外面に関しては、現在の政治・経済システムおよび、全体の流れを捉える文明論の研究が必要だと思っています。
その両者を統合する視点を与えてくれるのが、私の場合、神智学です。
こういう観点で、活動を行っておりますし、このスタンスは今後も変わらないと思います。
現状を見る限り、現実的な社会変革の必要性は、益々高まっており、それをいかに実現していったらいいのか、ということで、千葉大の小林正弥氏らに、私の苦手とする政治・経済方面の知識を補足したり、アプローチの仕方を習ったり、協力しています。
そんな中で模索していて辿り着いたのが、貧困・格差問題および、特に自殺問題です。
ここからアプローチすることが、一番効率的に社会にインパクトを与えることができると。
私は、個人の能力開発であるとか成功哲学、ヒーリングの優れた方法を探求していくよりも、ヒーリングの必要のない誰もが手をつないで楽しく生活できる社会づくりに向けて活動することが、今、緊急に必要なことだと思っています。
それには、地に足をつけ、現実を転換する活動が一番、必要なことだと思っております。なので、その活動は、極めて社会的なことになります。
最近特に、普通の人から見て、特別の、変わったことと思われるようなことは、余りしたくなくなってきています。
普通の意味で住みよい社会にすること、この平凡なことが、私の場合、今一番の目標です。
それに向けて行う活動は当然、結果的に見てスピリチュアルでホリスティックなものにはなると思いますが。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は、前にも申し上げたように、ベンジャミン・クレーム氏のキリスト再臨説、弥勒菩薩=マイトレーヤの登場を、今でもかなりな率で信じております。今年になり、マイトレーヤがアメリカのメディアに(身分を明かさずに)5回ほど登場し、公的な活動が始まった、と伝えられています。アセンション説が正しいか、キリストの再臨説が正しいか、あるいはどちらも誤りか・・・その真偽は、この1・2年のうちに分かると思います。
私がここ15年くらいやってきたことの多くは、(自分なりの気持ちとしては)キリストの再臨を少しでも早めるために役立ちたい、という思いからです。
そして、この1・2年が、最後の勝負だと思っています。
貴殿のいわれる創造主とは、どのような存在をさされているのか、私には分かりません。
私は、宇宙は美しい秩序で動いていると思います。そして、神智学はその秩序のうち、現在人類に与えることが許されているかなりの部分を、解明したものだと思っています。
最近、別の角度から新たに少し付加された真理が伝えられたのでは? と思われる本がでました。
千賀一生著『ガイアの法則』です。これを読まれれば、おそらくこれは否定できないだろうと思われるでしょう。
この中には、キリストの再臨に関しては、一切触れられていません。
しかし、フォトンベルトなどは、明解な形で、否定されています。
私は、昨年末にお付き合いして最新のアセンション説も伺いましたが、正直、根拠が薄いと思っています。
フォトンベルトも含め、アストラル的なグラマー(幻惑)であって、もちろんそれに基づいても、正しい方向への活動はなされますが、効率はかなり落ちると思っています。有意の人を働きの鈍らせるためのデマ情報ですらあると思うこともあります。
グラマーの情報をいくら積み重ねても、皆近い波動領域から出ていますから、その間に共通性は高かったとしても、それらが真理である保証にはなりません。
それこそが、物質科学的方法が通用しない、感情(アストラル)界以上の領域の特性だと思っています。
私も、「内的世界と外的世界を同時にひっくり返す」のは、人類だけの力では無理だと思います。
だから、キリストの再臨が必要であり、そのために(宇宙人も含め)上からの支援があるのだと考えています。
見えない世界の存在たちにも、多様な種類があり、階層がある、ということは、お認めになられていると思います。
アセンションを伝えてきた霊存在がどれくらいのレベルの存在なのか? 宇宙の創造主と言われるのは、どれくらいのレベルの存在なのか?
そこを明確にしていただきたいと思います。そうでないと、明確な議論ができません。
私は、自分の説を構築するに当たって、世界中の秘教を調べてきました。それを、サトルエネルギー学会の場などをお借りしてやってきたわけです。まだ、いささか不十分ですけれど。
もちろん、自説に100%の確証をもっているわけではありません。ですから、オープンに様々な説を受け入れる用意はしております。『ガイアの法則』を推奨するのも、その一つの証とお考えください。
しかし、今はもはや行動するしかない時期だと思っています。その活動とは、地に足のついた活動であるべきだ、というのが、私の結論です。
この地球は、私たち人類自身が立て直していかなければならない、と思っています。聖なるものを回復しなければならない。
聖なるもののまず第一の具体的行為は、分かち合いです。分かち合いがなければ、この地球から、戦争も環境問題も自殺も病気も、なくなりません。すべては分かち合いから始まると思っています。
キリストも宇宙人も、それを援助されるだけだと思います。
まずは国内の貧困・格差問題、そして世界の貧困・格差問題に取組むことなしに、一切の問題の本質的解決はない。そして、その貧困・格差問題に手をつけるためには、それを大きな要因として含む自殺問題から手をつけるのがいい。
これだけ格差の大きくなって、貧困で喘ぎ苦しんでいる人たちがたくさん出ている中で、分かち合いへの努力をせずに、創造主に委ねようというのは、私は責任放棄であり、それではまずほとんどの人は、アセンションがあったとしてもその条件を満たせないでしょう。
もし本当にアセンションが起きたとしたら、その場合にでもまず第一にアセンションできるのは、分かち合いを進める人、弱者のために働く人だと、考えています。
不愉快に思われる点が多々あったかもしれませんが、ご無礼お許しください。
このブログを読まれている方にも、私の現在の立場を要約してご理解いただくのに役立つかと思い、多少表現を変えたところがありますが、ご参考まで掲載させていただきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私も、今一番重要な問題に関しては同じく、「人類・地球は救えるか?」という問題だと思っております。
それには、個人の内面と社会の外面(システム)をどうやって同時に転換できるか? ということがポイントだと思っています。
個人の内面の転換には、インドのヨーガが、一番深い科学的アプローチをもっています。
社会の外面に関しては、現在の政治・経済システムおよび、全体の流れを捉える文明論の研究が必要だと思っています。
その両者を統合する視点を与えてくれるのが、私の場合、神智学です。
こういう観点で、活動を行っておりますし、このスタンスは今後も変わらないと思います。
現状を見る限り、現実的な社会変革の必要性は、益々高まっており、それをいかに実現していったらいいのか、ということで、千葉大の小林正弥氏らに、私の苦手とする政治・経済方面の知識を補足したり、アプローチの仕方を習ったり、協力しています。
そんな中で模索していて辿り着いたのが、貧困・格差問題および、特に自殺問題です。
ここからアプローチすることが、一番効率的に社会にインパクトを与えることができると。
私は、個人の能力開発であるとか成功哲学、ヒーリングの優れた方法を探求していくよりも、ヒーリングの必要のない誰もが手をつないで楽しく生活できる社会づくりに向けて活動することが、今、緊急に必要なことだと思っています。
それには、地に足をつけ、現実を転換する活動が一番、必要なことだと思っております。なので、その活動は、極めて社会的なことになります。
最近特に、普通の人から見て、特別の、変わったことと思われるようなことは、余りしたくなくなってきています。
普通の意味で住みよい社会にすること、この平凡なことが、私の場合、今一番の目標です。
それに向けて行う活動は当然、結果的に見てスピリチュアルでホリスティックなものにはなると思いますが。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は、前にも申し上げたように、ベンジャミン・クレーム氏のキリスト再臨説、弥勒菩薩=マイトレーヤの登場を、今でもかなりな率で信じております。今年になり、マイトレーヤがアメリカのメディアに(身分を明かさずに)5回ほど登場し、公的な活動が始まった、と伝えられています。アセンション説が正しいか、キリストの再臨説が正しいか、あるいはどちらも誤りか・・・その真偽は、この1・2年のうちに分かると思います。
私がここ15年くらいやってきたことの多くは、(自分なりの気持ちとしては)キリストの再臨を少しでも早めるために役立ちたい、という思いからです。
そして、この1・2年が、最後の勝負だと思っています。
貴殿のいわれる創造主とは、どのような存在をさされているのか、私には分かりません。
私は、宇宙は美しい秩序で動いていると思います。そして、神智学はその秩序のうち、現在人類に与えることが許されているかなりの部分を、解明したものだと思っています。
最近、別の角度から新たに少し付加された真理が伝えられたのでは? と思われる本がでました。
千賀一生著『ガイアの法則』です。これを読まれれば、おそらくこれは否定できないだろうと思われるでしょう。
この中には、キリストの再臨に関しては、一切触れられていません。
しかし、フォトンベルトなどは、明解な形で、否定されています。
私は、昨年末にお付き合いして最新のアセンション説も伺いましたが、正直、根拠が薄いと思っています。
フォトンベルトも含め、アストラル的なグラマー(幻惑)であって、もちろんそれに基づいても、正しい方向への活動はなされますが、効率はかなり落ちると思っています。有意の人を働きの鈍らせるためのデマ情報ですらあると思うこともあります。
グラマーの情報をいくら積み重ねても、皆近い波動領域から出ていますから、その間に共通性は高かったとしても、それらが真理である保証にはなりません。
それこそが、物質科学的方法が通用しない、感情(アストラル)界以上の領域の特性だと思っています。
私も、「内的世界と外的世界を同時にひっくり返す」のは、人類だけの力では無理だと思います。
だから、キリストの再臨が必要であり、そのために(宇宙人も含め)上からの支援があるのだと考えています。
見えない世界の存在たちにも、多様な種類があり、階層がある、ということは、お認めになられていると思います。
アセンションを伝えてきた霊存在がどれくらいのレベルの存在なのか? 宇宙の創造主と言われるのは、どれくらいのレベルの存在なのか?
そこを明確にしていただきたいと思います。そうでないと、明確な議論ができません。
私は、自分の説を構築するに当たって、世界中の秘教を調べてきました。それを、サトルエネルギー学会の場などをお借りしてやってきたわけです。まだ、いささか不十分ですけれど。
もちろん、自説に100%の確証をもっているわけではありません。ですから、オープンに様々な説を受け入れる用意はしております。『ガイアの法則』を推奨するのも、その一つの証とお考えください。
しかし、今はもはや行動するしかない時期だと思っています。その活動とは、地に足のついた活動であるべきだ、というのが、私の結論です。
この地球は、私たち人類自身が立て直していかなければならない、と思っています。聖なるものを回復しなければならない。
聖なるもののまず第一の具体的行為は、分かち合いです。分かち合いがなければ、この地球から、戦争も環境問題も自殺も病気も、なくなりません。すべては分かち合いから始まると思っています。
キリストも宇宙人も、それを援助されるだけだと思います。
まずは国内の貧困・格差問題、そして世界の貧困・格差問題に取組むことなしに、一切の問題の本質的解決はない。そして、その貧困・格差問題に手をつけるためには、それを大きな要因として含む自殺問題から手をつけるのがいい。
これだけ格差の大きくなって、貧困で喘ぎ苦しんでいる人たちがたくさん出ている中で、分かち合いへの努力をせずに、創造主に委ねようというのは、私は責任放棄であり、それではまずほとんどの人は、アセンションがあったとしてもその条件を満たせないでしょう。
もし本当にアセンションが起きたとしたら、その場合にでもまず第一にアセンションできるのは、分かち合いを進める人、弱者のために働く人だと、考えています。
不愉快に思われる点が多々あったかもしれませんが、ご無礼お許しください。
自殺と経済
自殺と経済の関係に関して、『闇の中に光を見いだす ~貧困と自殺の現場から~』と『「自殺社会」から「生き心地の良い社会」へ』の中から、清水氏が語った興味深い点について、2点、紹介しておきます。
まずは後者の中から、「『死ねば家族が守れる』生命保険制度の落とし穴」という項があります。
上田紀行氏の「日本では自殺者の約60%が無職者だということですが、失業して家のローンなどを払えなくなった人が家族のために、生命保険を計算して自殺する、というようなケースはありませんか?」という趣旨の質問に対し、清水氏の答は、Yes です。
アメリカでは、サブプライムローンがあれだけ問題になったのに、それほど自殺者は増えない。それは、返済できなくなったとき、ローンを組んだ対象の物件を放棄すれば負債も全部チャラになるようです。
(それは、自殺防止にはいいけれど、日本人の常識を超えて安易な契約を成立させ、そのツケを全世界が払わされてたんですね。)
「ところが日本の場合は、たとえ物件を放棄してもローンは残ります。だから、たとえばローンを組んで家を購入した後にリストラされてしまった人が、借金を返済するために購入した家を売ろうとしても、そのときにはすでに物件価格がガタ落ちになってしまっていて、もはや売ることもできない・・・・・・物件を手放すこともできずに、呆然と立ち尽くすしかない。
そこで、そうならないための手段として、すぐに思い浮かぶのが生命保険です。
自分に掛けていた生命保険さえ下りれば、そのローンの返済に充てることができる。そうなれば、少なくとも今一緒に住んでいる家族は救うことができると。」(P210・211)
これと同様のことが、連帯保証人とか連鎖倒産が絡んだりしても、起きてきます。
「『人に迷惑をかけたくない』という責任感が強い人ほど、『自分が死にさえすれば、すべては解決するんだ』と思ってしまう、思わされる仕組みになっているわけです。」(P213)
日本の自殺者が増えている背景には、こういった制度的な問題もあるようです。これは、あまりに悲惨な選択です。絶対に変えていかなければいけませんよね。
さてもう1点は、前者から「自殺による経済的損失」について。
「社会的な負担ではなく、亡くなった人たちが生きていた場合の経済効果、生涯賃金を試算したんですが、その損失利益は約二二兆円にもなります。なので、単純に言えば一〇倍の効果がある。労働人口減少への対策という意味でも、それは極めて効率的な社会投資であるはずなのです。」(P60)
いつも思うんですが、GDP(国民総生産)っていうけど、それをお金の尺度で測るのって、おかしいんじゃないの?
もっと単純に考えて、働ける能力・意思のある人が働けなかったら、当然その分、価値を生み出す量は下がっているはずです。国民総生産ということを考えるのはいいけれど、失業者がたくさん出て、さらに自殺者が一向に減らないのに、(革新的技術開発もなく)GDPが維持されたり上がるような計算方法を使っていることが、そしてそれに価値を置くことが、大きな問題ですよね。
続きを見てみましょう。
「(『自殺実態白書』の)第四章は『自死遺族の実状』として、残された人たちの実状をまとめました。遺族の心理的な負担、それに伴う生産性の低下のことなども考えたら、それを逸失利益として上乗せしてもいいぐらいの話です。逆に支援のことを考えれば、社会的なコストもかかるわけですし。
ちなみにイギリスでは、精神疾患による経済的コストを国として算出しています。『人助け、みんなやりたいんだよ。でも、お金をどうするの?』という話になりかねないので、そうではない、経済的な観点からも逸失利益は大きく、支援することで社会的コストも下がる、逆に我々は、おカネを無駄にしているかもしれないよ、というプレゼンは、絶対大事ですよね。」(P60)
環境問題なんかも同じ話があって、やっと今「炭素税」(それがいいといっているわけではないのですが)とか、野放しにされていた環境負荷に対する評価をきちんと出す取組みが始まっています。
数量化するという物質科学的な見方も重要であって、しかしそれが今まで部分のみを見て全体を見ない、いい加減な方法で行われていた。それによって、さらなる事態の悪化を招いていたわけです。
湯浅誠さんも、「カネの話をするしかないと思ってます。そのことによってどれだけ社会が損をしているか、経済損失として示さないと学ばない、学べないのではないか。命の問題や人権の問題だから、本当はカネの話にするのはどうなのかという思いはあるけれど、やっぱりわかってもらえないんですよね。」(P58)と、諦め気味に語っていました。
まずは後者の中から、「『死ねば家族が守れる』生命保険制度の落とし穴」という項があります。
上田紀行氏の「日本では自殺者の約60%が無職者だということですが、失業して家のローンなどを払えなくなった人が家族のために、生命保険を計算して自殺する、というようなケースはありませんか?」という趣旨の質問に対し、清水氏の答は、Yes です。
アメリカでは、サブプライムローンがあれだけ問題になったのに、それほど自殺者は増えない。それは、返済できなくなったとき、ローンを組んだ対象の物件を放棄すれば負債も全部チャラになるようです。
(それは、自殺防止にはいいけれど、日本人の常識を超えて安易な契約を成立させ、そのツケを全世界が払わされてたんですね。)
「ところが日本の場合は、たとえ物件を放棄してもローンは残ります。だから、たとえばローンを組んで家を購入した後にリストラされてしまった人が、借金を返済するために購入した家を売ろうとしても、そのときにはすでに物件価格がガタ落ちになってしまっていて、もはや売ることもできない・・・・・・物件を手放すこともできずに、呆然と立ち尽くすしかない。
そこで、そうならないための手段として、すぐに思い浮かぶのが生命保険です。
自分に掛けていた生命保険さえ下りれば、そのローンの返済に充てることができる。そうなれば、少なくとも今一緒に住んでいる家族は救うことができると。」(P210・211)
これと同様のことが、連帯保証人とか連鎖倒産が絡んだりしても、起きてきます。
「『人に迷惑をかけたくない』という責任感が強い人ほど、『自分が死にさえすれば、すべては解決するんだ』と思ってしまう、思わされる仕組みになっているわけです。」(P213)
日本の自殺者が増えている背景には、こういった制度的な問題もあるようです。これは、あまりに悲惨な選択です。絶対に変えていかなければいけませんよね。
さてもう1点は、前者から「自殺による経済的損失」について。
「社会的な負担ではなく、亡くなった人たちが生きていた場合の経済効果、生涯賃金を試算したんですが、その損失利益は約二二兆円にもなります。なので、単純に言えば一〇倍の効果がある。労働人口減少への対策という意味でも、それは極めて効率的な社会投資であるはずなのです。」(P60)
いつも思うんですが、GDP(国民総生産)っていうけど、それをお金の尺度で測るのって、おかしいんじゃないの?
もっと単純に考えて、働ける能力・意思のある人が働けなかったら、当然その分、価値を生み出す量は下がっているはずです。国民総生産ということを考えるのはいいけれど、失業者がたくさん出て、さらに自殺者が一向に減らないのに、(革新的技術開発もなく)GDPが維持されたり上がるような計算方法を使っていることが、そしてそれに価値を置くことが、大きな問題ですよね。
続きを見てみましょう。
「(『自殺実態白書』の)第四章は『自死遺族の実状』として、残された人たちの実状をまとめました。遺族の心理的な負担、それに伴う生産性の低下のことなども考えたら、それを逸失利益として上乗せしてもいいぐらいの話です。逆に支援のことを考えれば、社会的なコストもかかるわけですし。
ちなみにイギリスでは、精神疾患による経済的コストを国として算出しています。『人助け、みんなやりたいんだよ。でも、お金をどうするの?』という話になりかねないので、そうではない、経済的な観点からも逸失利益は大きく、支援することで社会的コストも下がる、逆に我々は、おカネを無駄にしているかもしれないよ、というプレゼンは、絶対大事ですよね。」(P60)
環境問題なんかも同じ話があって、やっと今「炭素税」(それがいいといっているわけではないのですが)とか、野放しにされていた環境負荷に対する評価をきちんと出す取組みが始まっています。
数量化するという物質科学的な見方も重要であって、しかしそれが今まで部分のみを見て全体を見ない、いい加減な方法で行われていた。それによって、さらなる事態の悪化を招いていたわけです。
湯浅誠さんも、「カネの話をするしかないと思ってます。そのことによってどれだけ社会が損をしているか、経済損失として示さないと学ばない、学べないのではないか。命の問題や人権の問題だから、本当はカネの話にするのはどうなのかという思いはあるけれど、やっぱりわかってもらえないんですよね。」(P58)と、諦め気味に語っていました。
自殺対策がホリスティックの最先端を拓く
清水康之氏と上田紀行氏の対談、『「自殺社会」から「生き心地の良い社会」へ』(講談社文庫)を読んで、昨日書いたものを、さらに補足しておきたいと思うことが出てきました。
まず、自殺問題では、清水氏らの頑張りにより、「自殺対策基本法」ができて、「自殺が社会の問題である」という合意ができるまでに至っていること。清水氏の、次のような発言があります。
「それまでずっと、日本社会においては、『自殺は個人の問題である』ということが世間の常識としてまかり通ってきた側面があります。
『自殺は個人の意思でするもの』『自殺をする人は、死にたくて死んだんだ』と。
これが行きすぎると、『自殺はひきょう者のすること』というような、心ない発言にまで繋がっていくわけですが、とにかく自殺は極めて個人的な問題であって、社会やましてや国がどうのこうのと口を出すべき問題ではない、というのが一般的な世間の受け止め方だったと思います。
・・・
実際に、日本経済が大きく傾いた九〇年代の後半から、日本の自殺者は急増しています。失業率が上がると同時に、自殺率も上がっている。これは明らかに社会問題であるという証左です。
そのことを踏まえ、『自殺は社会の問題であり、対策は社会全体でしっかりとやっていきますよ』ということをはっきりと謳ったということが、『自殺対策基本法』の一番重要な部分だと思います。」(P40・41)
これによって、国や自治体が動く準備ができているのですね。さらに、
「自殺の多くは、『追い込まれた末の死』です。世間が言うように、『身勝手な死』だったり、『覚悟の上の死』ではなく、『生きていたい!』と思いながらも、多重債務だったり過労だったり、いじめだったりといったいろいろな理由で追い詰められた末に『もう生きられない!』『死ぬしかない!』と思って多くの人は亡くなっていっている。積極的に自ら死を選んでいるわけではないんです。
だから、『自殺対策』とは、自殺を防ぐ対策というよりも、『生きるための支援』なんです。誰もが自ら死なないでも済むように、『生きていて心地よい社会』を創っていくこと。それが『自殺対策基本法』の究極の目的なんです。」(P42)
これはまさに、「最悪の闇の中から光を見いだした」といえるような、非常に大きなことだと思います。後で歴史を振り返ったとき、「この法律ができたことによって、時代が急転換していった。この法律制定が、闇から光への折り返し時点だった」といわれるようになるかもしれません。
清水氏は、
「法律を作るときは、その中の条文に『自殺の実態に即して』ということを謳ってもらうことにしたんです。そうすれば実態解明の必要性をそこから読み取って、実態調査を行い、その先に具体的な対策を立案して推進していくことも可能になりますから」(P43)
と、ここでも先の展開まで見越して、しっかりポイントを押えています。
そして自身が中心となってやった調査で、自殺原因に関する次のような結果と、対策の見通しを得ています。
「我々の調査からわかってきているのは、一人ひとりの自殺の背景には、平均すると四つの要因が重なっている、ということです。逆にそれくらいの要因が重ならなければ、人は自殺をしない。
たとえば、『失業+生活苦+多重債務+うつ病』とか、あるいは『生活苦+家族の問題+職場のいじめ+うつ病」とか、ほとんど常に、複数の分野の問題が重なり合って自殺が起きている。
だから、仮にある専門家がその人の抱えている問題のうちひとつだけを解決しても、あとの三つが未解決で残っているままでは、その人を完全に自殺から救うことはできないんですよ。うつ病の治療だけをずっとしていても、それ以外の『失業+生活苦+多重債務』が残っていれば、その人は再びうつ病になってしまう可能性が高い。
もっと人をトータルな存在として捉えていかないと、自殺は減りません。」(P170・171)
そうですよねぇ。まさに、そうなんです。
これは、私がずっとホリスティック医学関係者などに訴え続けてきたことでした。先日の「スピボイ」http://www.spiritualvoyagers.jp/ (昨年12月のインタヴュー)でも、最初からちょっといったところで、語ってます。
でも、それがこれまではほとんど通じなかった。医学の及ぶ範囲でしか、解決策を探ろうとしないから。「経済や法律の問題までは、自分の守備範囲外」です、で終わってしまう。それでは、真のホリスティック医学になりませんよね。
だから、清水さんの始めた自殺対策は、ホリスティック・ムーヴメントにとっても、重要な画期となる活動といえるのです。多くのホリスティック関係者が、これを読んで、考えを深め、重い腰をあげて欲しいものです。
先の文章の引用を、もう少し続けますと、
「しかも、総合的に問題を把握していかないと、せっかくの情報も分割されたままで、対策を立てる政府に入っていってしまいます。たとえば、精神科医の報告書を読むのは厚生労働省なので、そこから出る自殺対策は、うつ病対策に特化れてしまいますし、多重債務の問題は金融庁、いじめ対策は文部科学省というように。そうなると、結局対策はすべて、縦割りになってしまい、トータルな意味での自殺対策にならないんです。」(P171)
今まで、がん、急性心筋梗塞、脳卒中の3大疾病等によって無数の命が失われ、その背後に同様の社会的問題があったと推定されるにもかかわらず、この壁を突破できませんでした。突破しようという動きもそれほど起きてきませんでした。
ですから今回こういう取り組みが始まったのは、単なる「命の重さ」という問題ではなく、自殺という問題の特殊性が関係して生み出された現象である、といえます。
この点に関して、秘教も含めた精神世界では、「自殺は絶対してはいけないもの」「自殺では何の解決も得られない」という見方をし、発言をしてきました。それは本人の問題としては正しいものの、それによって自殺の問題にある意味冷たい視線を送ってきたところがあると思います。
その同じ問題に対し清水氏が温かい視線を送ったことが社会を転換する動きの起点になるとしたら、これもまた大いに考えさせられる問題です。
清水氏の「自殺した方々の死を無駄にしたくない」という思いが、自殺者やその遺族の味わった強烈な精神的苦しみ=エネルギーに正しい方向づけを与え、社会蘇生のエネルギーとして蘇らせた、ともいえるでしょう。
まず、自殺問題では、清水氏らの頑張りにより、「自殺対策基本法」ができて、「自殺が社会の問題である」という合意ができるまでに至っていること。清水氏の、次のような発言があります。
「それまでずっと、日本社会においては、『自殺は個人の問題である』ということが世間の常識としてまかり通ってきた側面があります。
『自殺は個人の意思でするもの』『自殺をする人は、死にたくて死んだんだ』と。
これが行きすぎると、『自殺はひきょう者のすること』というような、心ない発言にまで繋がっていくわけですが、とにかく自殺は極めて個人的な問題であって、社会やましてや国がどうのこうのと口を出すべき問題ではない、というのが一般的な世間の受け止め方だったと思います。
・・・
実際に、日本経済が大きく傾いた九〇年代の後半から、日本の自殺者は急増しています。失業率が上がると同時に、自殺率も上がっている。これは明らかに社会問題であるという証左です。
そのことを踏まえ、『自殺は社会の問題であり、対策は社会全体でしっかりとやっていきますよ』ということをはっきりと謳ったということが、『自殺対策基本法』の一番重要な部分だと思います。」(P40・41)
これによって、国や自治体が動く準備ができているのですね。さらに、
「自殺の多くは、『追い込まれた末の死』です。世間が言うように、『身勝手な死』だったり、『覚悟の上の死』ではなく、『生きていたい!』と思いながらも、多重債務だったり過労だったり、いじめだったりといったいろいろな理由で追い詰められた末に『もう生きられない!』『死ぬしかない!』と思って多くの人は亡くなっていっている。積極的に自ら死を選んでいるわけではないんです。
だから、『自殺対策』とは、自殺を防ぐ対策というよりも、『生きるための支援』なんです。誰もが自ら死なないでも済むように、『生きていて心地よい社会』を創っていくこと。それが『自殺対策基本法』の究極の目的なんです。」(P42)
これはまさに、「最悪の闇の中から光を見いだした」といえるような、非常に大きなことだと思います。後で歴史を振り返ったとき、「この法律ができたことによって、時代が急転換していった。この法律制定が、闇から光への折り返し時点だった」といわれるようになるかもしれません。
清水氏は、
「法律を作るときは、その中の条文に『自殺の実態に即して』ということを謳ってもらうことにしたんです。そうすれば実態解明の必要性をそこから読み取って、実態調査を行い、その先に具体的な対策を立案して推進していくことも可能になりますから」(P43)
と、ここでも先の展開まで見越して、しっかりポイントを押えています。
そして自身が中心となってやった調査で、自殺原因に関する次のような結果と、対策の見通しを得ています。
「我々の調査からわかってきているのは、一人ひとりの自殺の背景には、平均すると四つの要因が重なっている、ということです。逆にそれくらいの要因が重ならなければ、人は自殺をしない。
たとえば、『失業+生活苦+多重債務+うつ病』とか、あるいは『生活苦+家族の問題+職場のいじめ+うつ病」とか、ほとんど常に、複数の分野の問題が重なり合って自殺が起きている。
だから、仮にある専門家がその人の抱えている問題のうちひとつだけを解決しても、あとの三つが未解決で残っているままでは、その人を完全に自殺から救うことはできないんですよ。うつ病の治療だけをずっとしていても、それ以外の『失業+生活苦+多重債務』が残っていれば、その人は再びうつ病になってしまう可能性が高い。
もっと人をトータルな存在として捉えていかないと、自殺は減りません。」(P170・171)
そうですよねぇ。まさに、そうなんです。
これは、私がずっとホリスティック医学関係者などに訴え続けてきたことでした。先日の「スピボイ」http://www.spiritualvoyagers.jp/ (昨年12月のインタヴュー)でも、最初からちょっといったところで、語ってます。
でも、それがこれまではほとんど通じなかった。医学の及ぶ範囲でしか、解決策を探ろうとしないから。「経済や法律の問題までは、自分の守備範囲外」です、で終わってしまう。それでは、真のホリスティック医学になりませんよね。
だから、清水さんの始めた自殺対策は、ホリスティック・ムーヴメントにとっても、重要な画期となる活動といえるのです。多くのホリスティック関係者が、これを読んで、考えを深め、重い腰をあげて欲しいものです。
先の文章の引用を、もう少し続けますと、
「しかも、総合的に問題を把握していかないと、せっかくの情報も分割されたままで、対策を立てる政府に入っていってしまいます。たとえば、精神科医の報告書を読むのは厚生労働省なので、そこから出る自殺対策は、うつ病対策に特化れてしまいますし、多重債務の問題は金融庁、いじめ対策は文部科学省というように。そうなると、結局対策はすべて、縦割りになってしまい、トータルな意味での自殺対策にならないんです。」(P171)
今まで、がん、急性心筋梗塞、脳卒中の3大疾病等によって無数の命が失われ、その背後に同様の社会的問題があったと推定されるにもかかわらず、この壁を突破できませんでした。突破しようという動きもそれほど起きてきませんでした。
ですから今回こういう取り組みが始まったのは、単なる「命の重さ」という問題ではなく、自殺という問題の特殊性が関係して生み出された現象である、といえます。
この点に関して、秘教も含めた精神世界では、「自殺は絶対してはいけないもの」「自殺では何の解決も得られない」という見方をし、発言をしてきました。それは本人の問題としては正しいものの、それによって自殺の問題にある意味冷たい視線を送ってきたところがあると思います。
その同じ問題に対し清水氏が温かい視線を送ったことが社会を転換する動きの起点になるとしたら、これもまた大いに考えさせられる問題です。
清水氏の「自殺した方々の死を無駄にしたくない」という思いが、自殺者やその遺族の味わった強烈な精神的苦しみ=エネルギーに正しい方向づけを与え、社会蘇生のエネルギーとして蘇らせた、ともいえるでしょう。
自殺問題=社会変革のツボ
自殺の問題と経済が大きく絡んでいることは、3月15日の記事で書いた1998年3月に自殺者が急増した理由の話を読んでも、明らかでしょう。ここを境目に毎年8千人くらい増加した自殺者はすべて、経済が絡んでいると見ていいと思います。
それ以前からも、当然、相当の割合で経済が問題が大きな要因となって自殺に追い込まれたケースがあるわけですし、清水氏は、全自殺者の6割が経済が主要因になっていると語っていたと思います。
清水氏の講演会以来、自殺問題を追いかけてきて、私は今、この問題に非常に強い関心をもっています。というのは、これが非常に深刻な問題であるがゆえに、現代社会の本質的問題点に一番単刀直入に切り込め、そこから導かれる考察・結論は、誰をも説得できるような力があるからです。
やはり、生命・存在に直接関わる問題となると、様々な殺人事件や北朝鮮などの拉致事件の報道の様子を見ても、社会的重要性・関心度が何百倍・何千倍に高まる、といえます。
自殺問題は、現代社会を転換するための一番重要な“ツボ”ではないか? という気も、してきました。
ツボは、そこに与える刺激によって、活殺自在。人を殺すツボが、社会を活かすツボにもなりえるはずです。
今までネットでは、「完全自殺マニュアル」とか、自殺をほう助するような情報の方が騒がれていましたが、昨日取り上げた「ライフリンクDB」のようなサイトができたことも、その現れの一つです。
現代社会のツボとしては、他にも核問題・環境問題などがありますが、それよりも貧困問題との直結する自殺の方が訴える力が強いでしょう。
昨年12月、私は岡野守也氏の研究に触発されて、現代社会の転換を図るための方策を色々と検討し、ブログに書いてきました。
その私なりの結論としては、一つに、ウィルバーの4象限にいうところの、個人の内面と社会の外面(システム)という対極の要素を結びつけた形で同時に変革することの必要性と、もう一つ、手をつけるには貧困・格差問題からがいい、ということでした(12月7・9・21~25日など)。
今回、自殺問題に出会って、その貧困・格差問題に手をつける際の核に、この問題が位置している感触を得たのです。
3月17日記事の最後の方に引用した、
「清水さんとは今後も、嫌でも活動の場面を共有していくようになっていくと思います。嫌でも、ね(笑)。見ている現実と取っ組みあっている相手が同じなんだから、切り離しようがないですよね。」
という湯浅さんの言葉がありますが、この2つの問題は並列関係というよりも、包含関係に近いのではないか?
(厳密に語ろうとするとやや細かい表現になってしまいますが、自殺問題の中にも幾つかのツボが存在すると考えられますが)その主要なツボは、貧困・格差問題という大きなツボの核として存在しているような、そんなイメージが、私には浮かんでいます。
ここに集中していけば、小さな力で最も大きなインパクトを、いい方向へ社会転換していくために与えられるのではないか。それには、頑張っている清水さんの活動を支援するのが、一番いい。
それと、この問題は個人の内面の問題にも深くかかわってくるので、ヨーガ(療法)やトランスパーソナル心理学なども、大いに役立てられそうです。
私自身の今後の活動は、それを念頭において展開していきたいと、今、考え始めているところですし、共鳴していただける方は、是非、一緒にやっていきませんか?
それ以前からも、当然、相当の割合で経済が問題が大きな要因となって自殺に追い込まれたケースがあるわけですし、清水氏は、全自殺者の6割が経済が主要因になっていると語っていたと思います。
清水氏の講演会以来、自殺問題を追いかけてきて、私は今、この問題に非常に強い関心をもっています。というのは、これが非常に深刻な問題であるがゆえに、現代社会の本質的問題点に一番単刀直入に切り込め、そこから導かれる考察・結論は、誰をも説得できるような力があるからです。
やはり、生命・存在に直接関わる問題となると、様々な殺人事件や北朝鮮などの拉致事件の報道の様子を見ても、社会的重要性・関心度が何百倍・何千倍に高まる、といえます。
自殺問題は、現代社会を転換するための一番重要な“ツボ”ではないか? という気も、してきました。
ツボは、そこに与える刺激によって、活殺自在。人を殺すツボが、社会を活かすツボにもなりえるはずです。
今までネットでは、「完全自殺マニュアル」とか、自殺をほう助するような情報の方が騒がれていましたが、昨日取り上げた「ライフリンクDB」のようなサイトができたことも、その現れの一つです。
現代社会のツボとしては、他にも核問題・環境問題などがありますが、それよりも貧困問題との直結する自殺の方が訴える力が強いでしょう。
昨年12月、私は岡野守也氏の研究に触発されて、現代社会の転換を図るための方策を色々と検討し、ブログに書いてきました。
その私なりの結論としては、一つに、ウィルバーの4象限にいうところの、個人の内面と社会の外面(システム)という対極の要素を結びつけた形で同時に変革することの必要性と、もう一つ、手をつけるには貧困・格差問題からがいい、ということでした(12月7・9・21~25日など)。
今回、自殺問題に出会って、その貧困・格差問題に手をつける際の核に、この問題が位置している感触を得たのです。
3月17日記事の最後の方に引用した、
「清水さんとは今後も、嫌でも活動の場面を共有していくようになっていくと思います。嫌でも、ね(笑)。見ている現実と取っ組みあっている相手が同じなんだから、切り離しようがないですよね。」
という湯浅さんの言葉がありますが、この2つの問題は並列関係というよりも、包含関係に近いのではないか?
(厳密に語ろうとするとやや細かい表現になってしまいますが、自殺問題の中にも幾つかのツボが存在すると考えられますが)その主要なツボは、貧困・格差問題という大きなツボの核として存在しているような、そんなイメージが、私には浮かんでいます。
ここに集中していけば、小さな力で最も大きなインパクトを、いい方向へ社会転換していくために与えられるのではないか。それには、頑張っている清水さんの活動を支援するのが、一番いい。
それと、この問題は個人の内面の問題にも深くかかわってくるので、ヨーガ(療法)やトランスパーソナル心理学なども、大いに役立てられそうです。
私自身の今後の活動は、それを念頭において展開していきたいと、今、考え始めているところですし、共鳴していただける方は、是非、一緒にやっていきませんか?
もしも、行き詰ったとき・・・ライフリンクDB
もしあなたが、あるいは、身近な人が人生に行き詰まりのっぴ切らない状態になったとき、どうされますか?
こういうことは、いざとなったら、なかなかどうしていいか分からず、オロオロしてしまいますよね。
清水康之さんが代表を務められている、NPO法人ライフリンクのHPから、「ライフリンクDB(データベース)=生きる支援 検索サイト」 というのを開いてみました。
http://lifelink-db.org/about_first.html
トップページには、昔の指で回すダイヤル方式の電話器みたいに、10の小円(バルーン)が円形に並べられ、その中に次の相談項目が書かれています。
・死にたい
・家族・友人が自殺しそう
・犯罪被害にあった
・家族を亡くした
・学校の悩み
・仕事・事業の悩み
・生活・お金の悩み
・家庭・育児の悩み
・健康・こころの悩み
・男女・近隣の悩み
このうちどれか一つを選んでクリックする。例えば「死にたい」だと、
・話を聞いてほしい
・生活が苦しい
・仕事がない
・過重労働がきつい
・職場の人間関係に悩んでいる
・家庭関係がうまくいかない
・事業が不振で経営が苦しい
・精神科・心療内科を紹介してほしい
・パワハラ
・いじめ
・介護疲れ
・進路の悩み
・借金・多重債務
・住むところがない
・家賃が払えない
というのが出てきます。このうち「介護疲れ」を押すと、「さらに絞って検索」というのが出てきて、
・地域・市町村
・平日17時以降もやっている
・土曜もしくは日曜もやっている
・無料で相談できる
・面談で相談できる
・メールで相談できる
・行政の相談窓口のみ
というような、チェック項目が出てきます。
これは、本当に使いやすくできています。「徹底的に受益者の立場にたって」作られている、というのが、実感できます。
清水さんは講演で、「『ぐるなび』と同じような感じでつくりました」と言われてました。
「自殺」に比べたら「どこで食事するか」なんてどうでもいいことには、便利な検索システムができていて、本当に困ったこと、困難を抱えた弱者を救済する検索システムがなかったなんて、とんでもないことですよね。
でも、意外と気づかれてこなかった。
あるいは、気づいても取組まれてこなかった。何でなのでしょうか?
でも逆に考えると、私たちの欲望を満たすもの、金儲けにつながるものには人間、意欲をもって取組め、そこで得た気づきが社会をよくすることもある、とも考えられますね。
いずれにしろ、このシステムによって、もの凄く多くの人が救われるような気がします。
是非すぐに、ライフリンクDBを開けてみてください。その経験が、あなた自身を救うかもしれないし、あなたの周囲の大切な人を救うことになるかもしれませんから。
清水さんが、闇夜に救命ボートを出してくれたのだから(3月16日記事、参照)、せめてそれを見つけた私たちは、「ここに救命ボートがあるよ~!」と、大声で皆に伝える役くらい、しようではありませんか。
こういうことは、いざとなったら、なかなかどうしていいか分からず、オロオロしてしまいますよね。
清水康之さんが代表を務められている、NPO法人ライフリンクのHPから、「ライフリンクDB(データベース)=生きる支援 検索サイト」 というのを開いてみました。
http://lifelink-db.org/about_first.html
トップページには、昔の指で回すダイヤル方式の電話器みたいに、10の小円(バルーン)が円形に並べられ、その中に次の相談項目が書かれています。
・死にたい
・家族・友人が自殺しそう
・犯罪被害にあった
・家族を亡くした
・学校の悩み
・仕事・事業の悩み
・生活・お金の悩み
・家庭・育児の悩み
・健康・こころの悩み
・男女・近隣の悩み
このうちどれか一つを選んでクリックする。例えば「死にたい」だと、
・話を聞いてほしい
・生活が苦しい
・仕事がない
・過重労働がきつい
・職場の人間関係に悩んでいる
・家庭関係がうまくいかない
・事業が不振で経営が苦しい
・精神科・心療内科を紹介してほしい
・パワハラ
・いじめ
・介護疲れ
・進路の悩み
・借金・多重債務
・住むところがない
・家賃が払えない
というのが出てきます。このうち「介護疲れ」を押すと、「さらに絞って検索」というのが出てきて、
・地域・市町村
・平日17時以降もやっている
・土曜もしくは日曜もやっている
・無料で相談できる
・面談で相談できる
・メールで相談できる
・行政の相談窓口のみ
というような、チェック項目が出てきます。
これは、本当に使いやすくできています。「徹底的に受益者の立場にたって」作られている、というのが、実感できます。
清水さんは講演で、「『ぐるなび』と同じような感じでつくりました」と言われてました。
「自殺」に比べたら「どこで食事するか」なんてどうでもいいことには、便利な検索システムができていて、本当に困ったこと、困難を抱えた弱者を救済する検索システムがなかったなんて、とんでもないことですよね。
でも、意外と気づかれてこなかった。
あるいは、気づいても取組まれてこなかった。何でなのでしょうか?
でも逆に考えると、私たちの欲望を満たすもの、金儲けにつながるものには人間、意欲をもって取組め、そこで得た気づきが社会をよくすることもある、とも考えられますね。
いずれにしろ、このシステムによって、もの凄く多くの人が救われるような気がします。
是非すぐに、ライフリンクDBを開けてみてください。その経験が、あなた自身を救うかもしれないし、あなたの周囲の大切な人を救うことになるかもしれませんから。
清水さんが、闇夜に救命ボートを出してくれたのだから(3月16日記事、参照)、せめてそれを見つけた私たちは、「ここに救命ボートがあるよ~!」と、大声で皆に伝える役くらい、しようではありませんか。
“光”についての瞑想
今日も1日、色々とあって、落ち着いて書く時間がもてませんでした。
なので、今日はちょっと手を省かせていただいて、
昨日引用させていただいた、清水氏が語っている、
「暗い闇の中のかすかな光」
とは、どんな光なのか? について、
せっかくこのブログを開いていただいた方は、ちょっと考え、
瞑想していただければ、幸いです。
なので、今日はちょっと手を省かせていただいて、
昨日引用させていただいた、清水氏が語っている、
「暗い闇の中のかすかな光」
とは、どんな光なのか? について、
せっかくこのブログを開いていただいた方は、ちょっと考え、
瞑想していただければ、幸いです。
『闇の中に光を見いだす ~貧困と自殺の現場から~』(3)
清水康之氏、湯浅誠氏に共通する素晴らしい点の一つに、非常に深刻な問題を扱っていて、真剣そのものの生き方をされているんだけれど、根暗な感じがしない、ということがあると思います。これは、トップ・リーダーとしての貴重な資質だと思いますし、これによって日本がどれくらい救われるか分からないでしょう。
清水氏は、次のように語ります。
「確かに問題自体は深刻だし、対策も真剣にやっているのだけれど、でも、必ずしも出口のない暗い話だとは思っていません。聴覚を失ってしまった作曲家の佐村河内守さんが、『闇が深ければ深いほど、小さな光が明るく見える』と言っています。
人は欲深く、光の中にいながらも、より強い光を求めてしまう。でも宝石が、陽のあたる場所にではなく、暗闇の中に巧みに隠されているように、本当に大切なものは闇の中で小さく輝いているのだと。そしてそれは、普段気づけなくても、闇が深いときほど気づくチャンスなのだと。そうした、ご自身の壮絶な体験の中から紡ぎだされた佐村河内さんの言葉を、私はいつも、自分の励みにしています。
個人ではなく、社会も同じです。一〇〇年に一度の経済危機と言われていたのが、喉元過ぎれば、で、今はあまり言われなくなってしまいました。でも深刻な事態であることに変わりありません。そんな中、なぜ自分がこの分野で活動しているのかと考えたとき、確かに色んな人から色んな思いを託されているということもありますが、その義務感や責任感だけでなく、やはり、この活動を掘っていくと、暗い闇の中にかすかな光が見える――実際に見えているのか、幻覚が生じているのかは分かりませんが(笑)、社会が進むべき道を照らす確かな光があるのかを予感します。湯浅さんとの出会いも、闇の中の光の一つだと思いますし。
この闇と徹底して向き合い、徹底して目をこらして、そこに、小さくとも確実な光を発見することができたなら、それによって、一〇〇年に一度の危機を、一〇〇年に一度のチャンスに変えていくことができるかもしれない。自殺と貧困だなんて、二大暗いテーマのように受け取られるかもしれませんが、でも、だからこそ、誤解を恐れずに言えば、我々は楽しんでやらなければならないという思いが、すごくあります。
これで、私や湯浅さんが、暗い顔をして、暗い人生を歩み始めたら、何にもならないでしょう? だから今後も、湯浅さんとはつかず離れず、闇の中であっても、現場を立脚点にしながら、活動を続けたいと思っています。」(P61・62)
本当に、この人は若いんだけど、円熟してますよね。あまりこういうことは書きたくありませんが、やはり魂が進化してるとしかいいようがないでしょう。
私は、インディゴとかクリスタル・チルドレンとかが誇張されるのも好きではありませんが、この清水さんが学校や社会を窮屈に思い不適応を起こして、高校を中退したことは、肯けます。
でも、よくその後、たて直して社会復帰して戻ってきてくれた。それでもまた、せっかく入社したNHKを辞めてしまうんですね。自殺者の遺児たちに出会って衝撃を受けたことが切っ掛けということです。「色んな人から色んな思いを託されている」というのは、その辺のことのようです。
一方で、NHKの報道番組づくりに関しての飽き足りなさ、ということもあったと思います。
「クローズアップ現代」のディレクターというのは、報道では花形なのではないか、と思います。それを蹴ってしまった。
「クローズアップ現代」というのは、とてもいい番組だと思います。清水さんも、それを作っていたわけですから。しかし、1人のディレクターが作るのは年に4・5本くらいみたいですね。
この番組、とても参考になるので、このブログでもよく取り上げさせていただいていますが、去年の8月12日「『クローズアップ現代』の可能性」にも書いたような問題点もあると思います。
30分で掘り下げられることには限界があるのです。
色んな問題を次々に取り上げて、ある程度のところまではいくのですが、すべてに共通する地下水脈までは行けない。それを繰り返していてもラチがあかない、という思いが、おそらく彼の中にはあったのではないか、と思います。
それは、これまでピックアップした彼の色々な発言の中にも読み取れますよね。
現代社会の改革の極めて重要なポイントとして、マスコミの浄化とレベル・アップという問題があります。彼のような問題意識をもった人が、またテレビの世界に戻って、その深みから番組作りをしてくれたら、どれほど質の高い番組がつくられていくことでしょうか。
将来的には、こういう人にNHKの会長をなってもらいたいですよね。
昨年末、湯浅さんは取り上げましたので、今回は清水さん中心の紹介になりましたが、先の清水さんの言葉を受け、本の最後を締めくくっている湯浅さんの言葉を、引用させていただきます。
「闇の中に光を見いだす……いい言葉ですね。
『どうしてそんな活動を続けているのか』と聞かれたときに、『面白いからです』と答えると、よく驚かれます。『貧困』という暗いテーマと『面白い』という言葉はそぐわないように感じられるんですね。たしかにそうなんだけど、でも楽しみや面白味がなければ長く続くはずがないというのも、明らかだと思います。
『面白い』というのは、面白おかしいということではなくて、ある種のやりがい、手ごたえといったものですね。貧困という課題は、深くて暗く、複雑で難しい闇だけど、それだけに、一人ひとりが生活を立て直していく中で見違えるように変わっていく様子とか、世の中捨てたものじゃないと感じられる瞬間のもつ輝きには際立たものがあって、活動を続けるということは、そうした場面にたくさん出くわすということでもあるんですね。それは、真に人間の底力や社会の底力を感じられる瞬間です。そんな稀有な経験をたくさんさせてもらえることが、面白くないわけがない。
・・・
この問題にコミットすることで得てきた体験に比べれば、コミットしないで済む理由を探し続ける自己責任論的な言辞が、いかにイメージだけで、表面的かつ抽象的に問題を捉えているか、分かってしまう。強いて言えば、それが私にとっての『闇の中の光』ということでしょうか。
清水さんとは今後も、嫌でも活動の場面を共有していくようになっていくと思います。嫌でも、ね(笑)。見ている現実と取っ組みあっている相手が同じなんだから、切り離しようがないですよね。感覚的には、一緒に、光を遮っている周囲の岩盤につるはしを打ち込んでいる気分ですね。その行為がもっとたくさんの仲間を呼び込んで、みんなでつるはしを打ち込み、岩盤を穿って光を増やし、もっと明るくしていけるといいですよね。」
清水氏は、次のように語ります。
「確かに問題自体は深刻だし、対策も真剣にやっているのだけれど、でも、必ずしも出口のない暗い話だとは思っていません。聴覚を失ってしまった作曲家の佐村河内守さんが、『闇が深ければ深いほど、小さな光が明るく見える』と言っています。
人は欲深く、光の中にいながらも、より強い光を求めてしまう。でも宝石が、陽のあたる場所にではなく、暗闇の中に巧みに隠されているように、本当に大切なものは闇の中で小さく輝いているのだと。そしてそれは、普段気づけなくても、闇が深いときほど気づくチャンスなのだと。そうした、ご自身の壮絶な体験の中から紡ぎだされた佐村河内さんの言葉を、私はいつも、自分の励みにしています。
個人ではなく、社会も同じです。一〇〇年に一度の経済危機と言われていたのが、喉元過ぎれば、で、今はあまり言われなくなってしまいました。でも深刻な事態であることに変わりありません。そんな中、なぜ自分がこの分野で活動しているのかと考えたとき、確かに色んな人から色んな思いを託されているということもありますが、その義務感や責任感だけでなく、やはり、この活動を掘っていくと、暗い闇の中にかすかな光が見える――実際に見えているのか、幻覚が生じているのかは分かりませんが(笑)、社会が進むべき道を照らす確かな光があるのかを予感します。湯浅さんとの出会いも、闇の中の光の一つだと思いますし。
この闇と徹底して向き合い、徹底して目をこらして、そこに、小さくとも確実な光を発見することができたなら、それによって、一〇〇年に一度の危機を、一〇〇年に一度のチャンスに変えていくことができるかもしれない。自殺と貧困だなんて、二大暗いテーマのように受け取られるかもしれませんが、でも、だからこそ、誤解を恐れずに言えば、我々は楽しんでやらなければならないという思いが、すごくあります。
これで、私や湯浅さんが、暗い顔をして、暗い人生を歩み始めたら、何にもならないでしょう? だから今後も、湯浅さんとはつかず離れず、闇の中であっても、現場を立脚点にしながら、活動を続けたいと思っています。」(P61・62)
本当に、この人は若いんだけど、円熟してますよね。あまりこういうことは書きたくありませんが、やはり魂が進化してるとしかいいようがないでしょう。
私は、インディゴとかクリスタル・チルドレンとかが誇張されるのも好きではありませんが、この清水さんが学校や社会を窮屈に思い不適応を起こして、高校を中退したことは、肯けます。
でも、よくその後、たて直して社会復帰して戻ってきてくれた。それでもまた、せっかく入社したNHKを辞めてしまうんですね。自殺者の遺児たちに出会って衝撃を受けたことが切っ掛けということです。「色んな人から色んな思いを託されている」というのは、その辺のことのようです。
一方で、NHKの報道番組づくりに関しての飽き足りなさ、ということもあったと思います。
「クローズアップ現代」のディレクターというのは、報道では花形なのではないか、と思います。それを蹴ってしまった。
「クローズアップ現代」というのは、とてもいい番組だと思います。清水さんも、それを作っていたわけですから。しかし、1人のディレクターが作るのは年に4・5本くらいみたいですね。
この番組、とても参考になるので、このブログでもよく取り上げさせていただいていますが、去年の8月12日「『クローズアップ現代』の可能性」にも書いたような問題点もあると思います。
30分で掘り下げられることには限界があるのです。
色んな問題を次々に取り上げて、ある程度のところまではいくのですが、すべてに共通する地下水脈までは行けない。それを繰り返していてもラチがあかない、という思いが、おそらく彼の中にはあったのではないか、と思います。
それは、これまでピックアップした彼の色々な発言の中にも読み取れますよね。
現代社会の改革の極めて重要なポイントとして、マスコミの浄化とレベル・アップという問題があります。彼のような問題意識をもった人が、またテレビの世界に戻って、その深みから番組作りをしてくれたら、どれほど質の高い番組がつくられていくことでしょうか。
将来的には、こういう人にNHKの会長をなってもらいたいですよね。
昨年末、湯浅さんは取り上げましたので、今回は清水さん中心の紹介になりましたが、先の清水さんの言葉を受け、本の最後を締めくくっている湯浅さんの言葉を、引用させていただきます。
「闇の中に光を見いだす……いい言葉ですね。
『どうしてそんな活動を続けているのか』と聞かれたときに、『面白いからです』と答えると、よく驚かれます。『貧困』という暗いテーマと『面白い』という言葉はそぐわないように感じられるんですね。たしかにそうなんだけど、でも楽しみや面白味がなければ長く続くはずがないというのも、明らかだと思います。
『面白い』というのは、面白おかしいということではなくて、ある種のやりがい、手ごたえといったものですね。貧困という課題は、深くて暗く、複雑で難しい闇だけど、それだけに、一人ひとりが生活を立て直していく中で見違えるように変わっていく様子とか、世の中捨てたものじゃないと感じられる瞬間のもつ輝きには際立たものがあって、活動を続けるということは、そうした場面にたくさん出くわすということでもあるんですね。それは、真に人間の底力や社会の底力を感じられる瞬間です。そんな稀有な経験をたくさんさせてもらえることが、面白くないわけがない。
・・・
この問題にコミットすることで得てきた体験に比べれば、コミットしないで済む理由を探し続ける自己責任論的な言辞が、いかにイメージだけで、表面的かつ抽象的に問題を捉えているか、分かってしまう。強いて言えば、それが私にとっての『闇の中の光』ということでしょうか。
清水さんとは今後も、嫌でも活動の場面を共有していくようになっていくと思います。嫌でも、ね(笑)。見ている現実と取っ組みあっている相手が同じなんだから、切り離しようがないですよね。感覚的には、一緒に、光を遮っている周囲の岩盤につるはしを打ち込んでいる気分ですね。その行為がもっとたくさんの仲間を呼び込んで、みんなでつるはしを打ち込み、岩盤を穿って光を増やし、もっと明るくしていけるといいですよね。」
『闇の中に光を見いだす ~貧困と自殺の現場から~』(2)
昨日の続きで、もう少し前からの時代背景に関して、
「八〇年代までの日本は、産業界も教育界も、護送船団方式に象徴されるような管理社会で、そういうものに対して辟易する感覚が広がっていたから、湯浅さんが分析したように、スポーツ界のような実力主義への憧れが醸成されていったのではないでしょうか。
サーカスの空中ブランコに喩えていうと、管理社会というのはブランコが一本しかなくて、ただつかまって向こうにわたって、こっちに戻って、それしかやってはいけないとされる。たまにブランコから落ちる人がいても、落ちる場所も限られているから、セーフティーネットを単線で固定化して張っておけば、たいていのことは対応できる。
でもグローバル化にともなって規制緩和が進み、つまり空中ブランコで一回転してもいい、ひねりを加えてもいい、別の綱をわたっても、二人でやってもいい、となると、これまで想定していたネットには引っかからないところに、どんどん人が落ちてくるようになってしまった。」(P9・10)
それに応じてセーフティーネットを移動式にするなりどんどん増やさなければいけないところ、それを怠ったために同じパターンでおっこちて、自殺していく人が後をたたない。そして、
「多くの人が落ちてもネットがないことを感じ始めているのだけれど、『飛べよ』『飛べよ』とうしろから押されて、真面目な人ほど飛ばなくてはいけないと思い、無理強いされるような形で飛んで、やはり落ちてしまう。
そのような状況がここまで来て、今度は何が起きているかというと、空中ブランコを飛ぶのは怖い、もう飛びたくないという人が増えてきた。落ちたら死ぬかもしれないのに、ブランコはそんなに楽しくないし、と。」
清水康之さんは、2回前に書いたプロフィールにあるように、テレビ(元NHK報道番組ディレクター[主に「クローズアップ現代」を担当] )あがりの人だけに、比喩や表現が巧みです。まだ本はほとんど出されていませんが、これから著述をはじめとする様々な表現者としても注目されるようになると思います。
他にも、こんな喩えをされてました。
「ただ自殺は、極めて個人的な問題であると同時に、社会構造的な問題でもある。この一二年間、自殺者数は毎年コンスタントに、ほぼ三万二〇〇〇人から三万四〇〇〇人という一定のレンジで推移しています。・・・これはつまり、社会の中に三万数千個の落とし穴があって、穴に落ちた人、落とされた人から亡くなっていると解釈すべきだと。
だから、対症療法的に、穴に落ちた人を穴から引き上げる支援策だけでなく、社会のどこに穴があるかを検証して、穴に落ちないようにセーフティーネットを張っていくこと。埋められるのであれば穴を埋めてしまえばいいし、穴ができた原因を明らかにして、二度と穴ができないようにすることも重要です。そうやって、穴に落ちる人が出ないように、社会的な対応を取っていく。
社会の仕組みとして、なぜ多くの人が不本意な死を強いられているのか、問題の根源にまでも迫っていく。自殺だけではなく、孤独死や病院で亡くなる人もそうですし、もっと死から学び、学んだことを社会づくりに生かせるようにしていかなければならないと思います。」(P57・58)
毎年の自殺者が三万数千人というのはどういった感じのものなのか、先日の江戸川区の講演では、一番最初に、東京マラソンのスタート後間もない時点をビルの屋上から自分で撮った映像によって、示していました。
東京マラソンの参加者も毎年三万数千人。コースとなっている太い街道を埋め尽くして走る人の列が、20分以上も続きます。
映像で見せられると、それが驚くべき数であることが、強く印象づけられます。そして、上から見ると一粒の点が動いているだけのようですが、実はその一人ひとりに、それぞれの人生があるわけです。
毎年、それだけの人が、苦しみもがいた末に死んでゆく。それを救うために、やっと行政も動き出しましたが、それがまだ実効性のあるものになっていない。
「その意味でも、当事者の立場に立って関わる人が必要です。自殺対策のことで言えば、自殺に追い込まれようとしている人たち、あるいは困窮状態に陥っている人たちは、闇夜の海で溺れているような人です。何とか岸にたどりつきたいと思って泳ぐけれども、暗いので岸がどこにあるのかわからない。泳いでも泳いでも岸にたどりつかないので、ものすごく疲れてしまっている。
そこへ支援しましょうと浮き輪を浮かべたり、ボートを漕いで救出に行ったりしても、暗い夜なのですから、浮き輪がどこにあるかを照らさないと、溺れている人は浮き輪の存在もわからない。ボートで漕いでせっかく行っても、ボートの上でじっと黙ったままで、『いや、ボートを出しているけど、人が来ないんです』と言ったところで、来るわけがない。」
こういう表現ができることの裏には、もちろん、実施者本位のやり方しかしない行政のやり方の穴を埋めるべく、徹底的に受益者の立場にたっての実践を積み重ねてきたことが、あるわけです。
1972年生まれですから、まだ40歳前ですよね。本当に頼もしい人材が出てきたものです。
もちろん、出るべくしてだと思いますが、それに関しては、また追々と。
「八〇年代までの日本は、産業界も教育界も、護送船団方式に象徴されるような管理社会で、そういうものに対して辟易する感覚が広がっていたから、湯浅さんが分析したように、スポーツ界のような実力主義への憧れが醸成されていったのではないでしょうか。
サーカスの空中ブランコに喩えていうと、管理社会というのはブランコが一本しかなくて、ただつかまって向こうにわたって、こっちに戻って、それしかやってはいけないとされる。たまにブランコから落ちる人がいても、落ちる場所も限られているから、セーフティーネットを単線で固定化して張っておけば、たいていのことは対応できる。
でもグローバル化にともなって規制緩和が進み、つまり空中ブランコで一回転してもいい、ひねりを加えてもいい、別の綱をわたっても、二人でやってもいい、となると、これまで想定していたネットには引っかからないところに、どんどん人が落ちてくるようになってしまった。」(P9・10)
それに応じてセーフティーネットを移動式にするなりどんどん増やさなければいけないところ、それを怠ったために同じパターンでおっこちて、自殺していく人が後をたたない。そして、
「多くの人が落ちてもネットがないことを感じ始めているのだけれど、『飛べよ』『飛べよ』とうしろから押されて、真面目な人ほど飛ばなくてはいけないと思い、無理強いされるような形で飛んで、やはり落ちてしまう。
そのような状況がここまで来て、今度は何が起きているかというと、空中ブランコを飛ぶのは怖い、もう飛びたくないという人が増えてきた。落ちたら死ぬかもしれないのに、ブランコはそんなに楽しくないし、と。」
清水康之さんは、2回前に書いたプロフィールにあるように、テレビ(元NHK報道番組ディレクター[主に「クローズアップ現代」を担当] )あがりの人だけに、比喩や表現が巧みです。まだ本はほとんど出されていませんが、これから著述をはじめとする様々な表現者としても注目されるようになると思います。
他にも、こんな喩えをされてました。
「ただ自殺は、極めて個人的な問題であると同時に、社会構造的な問題でもある。この一二年間、自殺者数は毎年コンスタントに、ほぼ三万二〇〇〇人から三万四〇〇〇人という一定のレンジで推移しています。・・・これはつまり、社会の中に三万数千個の落とし穴があって、穴に落ちた人、落とされた人から亡くなっていると解釈すべきだと。
だから、対症療法的に、穴に落ちた人を穴から引き上げる支援策だけでなく、社会のどこに穴があるかを検証して、穴に落ちないようにセーフティーネットを張っていくこと。埋められるのであれば穴を埋めてしまえばいいし、穴ができた原因を明らかにして、二度と穴ができないようにすることも重要です。そうやって、穴に落ちる人が出ないように、社会的な対応を取っていく。
社会の仕組みとして、なぜ多くの人が不本意な死を強いられているのか、問題の根源にまでも迫っていく。自殺だけではなく、孤独死や病院で亡くなる人もそうですし、もっと死から学び、学んだことを社会づくりに生かせるようにしていかなければならないと思います。」(P57・58)
毎年の自殺者が三万数千人というのはどういった感じのものなのか、先日の江戸川区の講演では、一番最初に、東京マラソンのスタート後間もない時点をビルの屋上から自分で撮った映像によって、示していました。
東京マラソンの参加者も毎年三万数千人。コースとなっている太い街道を埋め尽くして走る人の列が、20分以上も続きます。
映像で見せられると、それが驚くべき数であることが、強く印象づけられます。そして、上から見ると一粒の点が動いているだけのようですが、実はその一人ひとりに、それぞれの人生があるわけです。
毎年、それだけの人が、苦しみもがいた末に死んでゆく。それを救うために、やっと行政も動き出しましたが、それがまだ実効性のあるものになっていない。
「その意味でも、当事者の立場に立って関わる人が必要です。自殺対策のことで言えば、自殺に追い込まれようとしている人たち、あるいは困窮状態に陥っている人たちは、闇夜の海で溺れているような人です。何とか岸にたどりつきたいと思って泳ぐけれども、暗いので岸がどこにあるのかわからない。泳いでも泳いでも岸にたどりつかないので、ものすごく疲れてしまっている。
そこへ支援しましょうと浮き輪を浮かべたり、ボートを漕いで救出に行ったりしても、暗い夜なのですから、浮き輪がどこにあるかを照らさないと、溺れている人は浮き輪の存在もわからない。ボートで漕いでせっかく行っても、ボートの上でじっと黙ったままで、『いや、ボートを出しているけど、人が来ないんです』と言ったところで、来るわけがない。」
こういう表現ができることの裏には、もちろん、実施者本位のやり方しかしない行政のやり方の穴を埋めるべく、徹底的に受益者の立場にたっての実践を積み重ねてきたことが、あるわけです。
1972年生まれですから、まだ40歳前ですよね。本当に頼もしい人材が出てきたものです。
もちろん、出るべくしてだと思いますが、それに関しては、また追々と。
『闇の中に光を見いだす ~貧困と自殺の現場から~』(1)
昨日は、太極拳の発表会・・・といっても本番の演武は、陳式太極拳の「老架1路」という套路(とうろ=型)の前半を集団でやって、5分で終わってしまうものですが。
この型を日本でやっているところはかなり少ないと思いますが、陳式は太極拳の源流であり、その中でも老架1路は太極拳のエッセンスが詰まったものだといわれています。そういったものを、家のごく近く(今度、『降りてゆく生き方』を上映する江戸川区アーバン・プラザ)でいい指導者に巡り合えて学べることは、とてもラッキーだと思っています。
この型はかなり難しく、今は健康管理のためだけに道場にいったときだけやっているので、なかなか憶えられません。こういう機会に多少集中してやらないと、何年たっても憶えないと思うので、始めて半年ちょっとで去年出て、今年は2回目。来年には一人でできるように憶えたいと思ってます。
終わった後、たまにはということで飲み会に参加しました。武術をやってる人たちというのは、ストレスを稽古の中で発散しているので、気持ちのいい人が多く、なかなか楽しい会でした。
あと、太極拳というのは中国思想の根幹をなす陰陽理論(今日のタイトルにもつながりますね)をそのまま体現したような文化であることと、さらに武術というのは最終的には生死を決するというところに目的があるので、それなりに深い議論ができる点がうれしいですね。
ただ、技術的にああだ、こうだ、という話は、興味はあるものの、2月28日に書いた「浅田真央の涙の評価と、わの舞」と同じような問題を一方で感じてしまい、私は、同じ生死の問題にエネルギーを注ぐなら、自殺や貧困の問題に向き合いたいと思います。
ということで、前作に引き続き、「働く世代の自殺を防ごう」で伺った清水康之氏の話を、テーマに掲げた書(清水康之・湯浅誠、岩波ブックレット)で再確認しながら書かせていただきます。
第1章は「貧困・自殺から見える日本社会」。
自殺者は、この13年間、3万人を超えていますが、その前は2万人強の時代が続いていました。それが1998年、それもその3月を境に自殺者が急増し、それまで月ベースでは2千人くらいだったものが、一気に3千人に跳ね上がって、それ以降、そのラインで高め安定してしまっているのです。
その1998年3月に急増した原因は、一体何だったのか?
これは社会的な問題であるため、もちろん推論的な話ではありますが、
「九八年三月というのは、九七年度の年度末、決算期です。九七年と言えば、三洋證券、北海道拓殖銀行が経営破綻に陥り、山一證券の自主廃業があり、それらはすべて一一月に起きたことでした。その年の年度末には日銀の短観(企業短期経済観測調査)が急激に悪化し、倒産件数も急増。一九九八年三月には完全失業率が初めて四%台に乗る。そういった社会経済状況に引きずられるようにして、自殺が急増しました。」(P4)
なので、推論といっても、この因果関係はかなり確かなものでしょう。
その後、自殺者数が減らずにきたのは、「自殺は個人の問題」とされて、行政レベルでの対策がなかなか打たれなかったからです。
そうした中、
「景気が悪化すると自殺が増えるのは、その背景に社会的問題があるということですし、そうした問題があるにもかかわらず、それが手当てされないまま放置されているというのは、社会構造的な問題です。自殺対策はそうした構造的問題とも対峙していかなければなりません。」(P4)
と語る清水氏らの努力により「自殺対策基本法」ができて「自殺は社会の問題である」という合意がなされたのは、やっと2006年のことでした。
一方で、貧困問題の方は湯浅氏によれば、
「そこまで明確な断層はないですね。貧困が広がっていった背景には大きく二つあって、一つは、私が「すべり台社会」と言っているような構造的な問題。一言で言うと、雇用と社会保障の間の溝がどんどん広がって、そこに落ち込む人がどんどん増えているという、社会システムの問題です。もう一つは、競争主義的なイデオロギーのメッセージが増え、自己責任論が強化されているということ。ハードとソフトとも言える、その両方が、繋がりながら徐々に強まり続けている。
これはやはり、九〇年代初頭にバブルがはじけて以降のことです。その前に国鉄民営化(一九八七年)もありましたし、バブルがはじける以前も含めて考えなくてはいけませんが、基本的には、九〇年代、二〇〇〇年代の二〇年間に強化され続けてきたという歴史になります。」(P4・5)
これに関しては昨年末12月29~31日に取り上げた『反貧困』をご参照ください。
「自殺」と「貧困」の関係で行くと、バブルが発端となって、経済にかかわるマイナスの動きがボディ・ブローのように効いてきて、97年11月にダウンが奪われ、それとともに自殺急増の引き金が引かれた、ということのようですね。
このブログでは、この辺の時代の変遷に関して色々書いてきまして、様々なものを複合的に読み合わせていくと、どのように連動して時代が変化してきたか(変化させられてきたか?)が、かなり見えてくると思います。
これまで書いた関連記事をあげておきますと、
1月16・17日の『降りてゆく生き方』で紹介した「コンセプト」、
2月7日記事中で紹介した『性に秘められた超スピリチュアルパワー』
が特に参考になると思います。
スポーツに関しても、その社会的影響に関して随所で書いてきましたが、この本の中で湯浅氏は、
「メッセージとしての自己責任論的なイデオロギーが大きく話題になったのは、二〇〇四年、イラクの日本人人質事件です。小泉政権(当時)が、人質にとられた被害者を自己責任論で切り捨てた。
しかし、私はその起源はもっと古いと思っていて、何年からとは言えませんが、スポーツの世界が注目されるようになったのが、九〇年代半ばという感じがしています。その頃、ニュース番組におけるスポーツコーナーの占める比重や、新聞におけるスポーツ報道の占める割合が、それまで見開き一枚だったスポーツ欄が二枚になったというように、感覚的に二倍になりました。
自由競争、弱肉強食原理が貫徹しているプロスポーツの価値観が、それまで以上にもてはやされるようになっていく。『強いものが勝ち、弱いものが負ける』『弱いものが負けたのは弱いゆえに負けたのであって、言い訳は通用しない。結果がすべてだ』というメッセージが社会全体に浸透し、プロスポーツの世界が我々の世界の非常に純粋なモデルとして、経済的な自由競争の導入とセットで持ち上げられていったのではないか。
そうなると、人々の考え方も、『これまでは、「護送船団方式」とか言われたけれど、ちんたらしているやつなんて切り捨てていかないと、社会全体がもたない」となっていく。
これが二〇〇〇年代前半までのことでした。そのことは、私が現場で活動している中で、どんどん野宿の人が増えていくというところからも見えてきました。」(P6)
と語っています。「イラクの日本人人質事件」に関しては、3月3日の高遠さんの話を参照してください。
いや、色々つながってきて、興味深いですね。
ところでこの本の帯には、2人の著者の爽やかな顔が載ってます。いい顔してますよね。そして、武道家・武術家に近いものを感じます。おそらくそれは、生死を賭けたテーマにおいて、命がけでこの時代と闘っているところからくるものだと思います。
さしずめ、2人は現代最高のメタレベルでの武術家といえるでしょうね。
この型を日本でやっているところはかなり少ないと思いますが、陳式は太極拳の源流であり、その中でも老架1路は太極拳のエッセンスが詰まったものだといわれています。そういったものを、家のごく近く(今度、『降りてゆく生き方』を上映する江戸川区アーバン・プラザ)でいい指導者に巡り合えて学べることは、とてもラッキーだと思っています。
この型はかなり難しく、今は健康管理のためだけに道場にいったときだけやっているので、なかなか憶えられません。こういう機会に多少集中してやらないと、何年たっても憶えないと思うので、始めて半年ちょっとで去年出て、今年は2回目。来年には一人でできるように憶えたいと思ってます。
終わった後、たまにはということで飲み会に参加しました。武術をやってる人たちというのは、ストレスを稽古の中で発散しているので、気持ちのいい人が多く、なかなか楽しい会でした。
あと、太極拳というのは中国思想の根幹をなす陰陽理論(今日のタイトルにもつながりますね)をそのまま体現したような文化であることと、さらに武術というのは最終的には生死を決するというところに目的があるので、それなりに深い議論ができる点がうれしいですね。
ただ、技術的にああだ、こうだ、という話は、興味はあるものの、2月28日に書いた「浅田真央の涙の評価と、わの舞」と同じような問題を一方で感じてしまい、私は、同じ生死の問題にエネルギーを注ぐなら、自殺や貧困の問題に向き合いたいと思います。
ということで、前作に引き続き、「働く世代の自殺を防ごう」で伺った清水康之氏の話を、テーマに掲げた書(清水康之・湯浅誠、岩波ブックレット)で再確認しながら書かせていただきます。
第1章は「貧困・自殺から見える日本社会」。
自殺者は、この13年間、3万人を超えていますが、その前は2万人強の時代が続いていました。それが1998年、それもその3月を境に自殺者が急増し、それまで月ベースでは2千人くらいだったものが、一気に3千人に跳ね上がって、それ以降、そのラインで高め安定してしまっているのです。
その1998年3月に急増した原因は、一体何だったのか?
これは社会的な問題であるため、もちろん推論的な話ではありますが、
「九八年三月というのは、九七年度の年度末、決算期です。九七年と言えば、三洋證券、北海道拓殖銀行が経営破綻に陥り、山一證券の自主廃業があり、それらはすべて一一月に起きたことでした。その年の年度末には日銀の短観(企業短期経済観測調査)が急激に悪化し、倒産件数も急増。一九九八年三月には完全失業率が初めて四%台に乗る。そういった社会経済状況に引きずられるようにして、自殺が急増しました。」(P4)
なので、推論といっても、この因果関係はかなり確かなものでしょう。
その後、自殺者数が減らずにきたのは、「自殺は個人の問題」とされて、行政レベルでの対策がなかなか打たれなかったからです。
そうした中、
「景気が悪化すると自殺が増えるのは、その背景に社会的問題があるということですし、そうした問題があるにもかかわらず、それが手当てされないまま放置されているというのは、社会構造的な問題です。自殺対策はそうした構造的問題とも対峙していかなければなりません。」(P4)
と語る清水氏らの努力により「自殺対策基本法」ができて「自殺は社会の問題である」という合意がなされたのは、やっと2006年のことでした。
一方で、貧困問題の方は湯浅氏によれば、
「そこまで明確な断層はないですね。貧困が広がっていった背景には大きく二つあって、一つは、私が「すべり台社会」と言っているような構造的な問題。一言で言うと、雇用と社会保障の間の溝がどんどん広がって、そこに落ち込む人がどんどん増えているという、社会システムの問題です。もう一つは、競争主義的なイデオロギーのメッセージが増え、自己責任論が強化されているということ。ハードとソフトとも言える、その両方が、繋がりながら徐々に強まり続けている。
これはやはり、九〇年代初頭にバブルがはじけて以降のことです。その前に国鉄民営化(一九八七年)もありましたし、バブルがはじける以前も含めて考えなくてはいけませんが、基本的には、九〇年代、二〇〇〇年代の二〇年間に強化され続けてきたという歴史になります。」(P4・5)
これに関しては昨年末12月29~31日に取り上げた『反貧困』をご参照ください。
「自殺」と「貧困」の関係で行くと、バブルが発端となって、経済にかかわるマイナスの動きがボディ・ブローのように効いてきて、97年11月にダウンが奪われ、それとともに自殺急増の引き金が引かれた、ということのようですね。
このブログでは、この辺の時代の変遷に関して色々書いてきまして、様々なものを複合的に読み合わせていくと、どのように連動して時代が変化してきたか(変化させられてきたか?)が、かなり見えてくると思います。
これまで書いた関連記事をあげておきますと、
1月16・17日の『降りてゆく生き方』で紹介した「コンセプト」、
2月7日記事中で紹介した『性に秘められた超スピリチュアルパワー』
が特に参考になると思います。
スポーツに関しても、その社会的影響に関して随所で書いてきましたが、この本の中で湯浅氏は、
「メッセージとしての自己責任論的なイデオロギーが大きく話題になったのは、二〇〇四年、イラクの日本人人質事件です。小泉政権(当時)が、人質にとられた被害者を自己責任論で切り捨てた。
しかし、私はその起源はもっと古いと思っていて、何年からとは言えませんが、スポーツの世界が注目されるようになったのが、九〇年代半ばという感じがしています。その頃、ニュース番組におけるスポーツコーナーの占める比重や、新聞におけるスポーツ報道の占める割合が、それまで見開き一枚だったスポーツ欄が二枚になったというように、感覚的に二倍になりました。
自由競争、弱肉強食原理が貫徹しているプロスポーツの価値観が、それまで以上にもてはやされるようになっていく。『強いものが勝ち、弱いものが負ける』『弱いものが負けたのは弱いゆえに負けたのであって、言い訳は通用しない。結果がすべてだ』というメッセージが社会全体に浸透し、プロスポーツの世界が我々の世界の非常に純粋なモデルとして、経済的な自由競争の導入とセットで持ち上げられていったのではないか。
そうなると、人々の考え方も、『これまでは、「護送船団方式」とか言われたけれど、ちんたらしているやつなんて切り捨てていかないと、社会全体がもたない」となっていく。
これが二〇〇〇年代前半までのことでした。そのことは、私が現場で活動している中で、どんどん野宿の人が増えていくというところからも見えてきました。」(P6)
と語っています。「イラクの日本人人質事件」に関しては、3月3日の高遠さんの話を参照してください。
いや、色々つながってきて、興味深いですね。
ところでこの本の帯には、2人の著者の爽やかな顔が載ってます。いい顔してますよね。そして、武道家・武術家に近いものを感じます。おそらくそれは、生死を賭けたテーマにおいて、命がけでこの時代と闘っているところからくるものだと思います。
さしずめ、2人は現代最高のメタレベルでの武術家といえるでしょうね。
清水康之×湯浅誠 自殺と貧困の合流からメタ認識へ
今日は、江戸川区のシンポジウム「働く世代の自殺を防ごう」に行ってきました。区の広報には、たいした説明がなかったのですが、行ってみたら嬉しい誤算で、基調講演の演者が自殺対策支援センターライフリンクの清水康之氏でした。
彼は、私がもっとも期待する若手の一人です。NHKの元ディレクターで、最近もよく登場するので、顔を見れば知っている方も多いともいます。プロフィールは以下の通り。
http://www.mmz.kantei.go.jp/jp/m-magazine/backnumber/2010/shimizu.html
NPO法人 自殺対策支援センター ライフリンク代表
元NHK報道番組ディレクター(主に「クローズアップ現代」を担当)
2001年、自死遺児たちを一年がかりで取材して『お父さん、死なないで~親が自殺 遺された子どもたち~』を放送。それまで匿名で活動していた自死遺児の素顔をはじめて社会に伝えた番組は、大きな反響を呼ぶ。
その後も、遺児や自殺で亡くなった人の遺書、自殺対策等について取材を続けるが、「推進役」のいない日本の自殺対策に限界を感じて、2004年春にNHKを退職。自らが自殺対策の「つなぎ役」となって活動していこうと、同年秋にNPO法人ライフリンクを設立し、代表に就任する。2006年、「自殺対策の法制化を求める3万人署名(結果10万人分集まる)」を企画・展開して、『自殺対策基本法』の成立にも大きく貢献。
持論は「自殺対策とは『生きる支援』『いのちへの支援』である」ということ。作家やジャーナリスト、法律の専門家や医療関係者、クリエーター等との、幅広い人脈を活かして精力的に活動している。
『自殺実態白書2008』(ライフリンク発行、2008年)発行責任者。『闇の中に光を見いだす ~貧困と自殺の現場から~』(岩波ブックレット、湯浅誠氏との対談)、『「自殺社会」から「生き心地の良い社会」へ』(講談社文庫、上田紀行氏との対談)。
貧困問題の専門家・湯浅誠氏との対談には(上掲書P23)、
「清水・・・私は湯浅さんの活動を出会い前から色々見ていて、それでも安易に一緒に活動するのはよくないと思っていたわけです。自殺は自殺の問題一本で徹底して掘っていき、貧困は貧困の問題で掘っていけば、必ずどこかで同じ水脈にぶちあたるはずで、それを中途半端に合流し、一緒に声を上げたところで、力としては弱まってしまう。それぞれが徹底して掘っていけば、必ずどこかで合流するから、そのタイミングで一緒にやっていくのがいいんじゃないかと思ってたの。
湯浅 戦略家だね(笑)
清水 戦略家なんですよ、こう見えても(笑)。だからこそ、今、制度や仕組みでかえていかなければならないことは協働してやっていくのがいいし、我々が協働し、他の分野で同じ水脈に向かって掘っている人たちとも力を合わせていけば、これまでの議論を超えたメタ的な、まさに社会全体の話に一気に引き上げられて、そういう視点を持ちながら、個別の施策の話をしていけるのではないでしょうか。
湯浅 可能性が圧倒的に広がったとは思う。」
2人の経歴は、まさに「降りてゆく生き方」そのもの。そして現政権で依頼を受け内閣府参与になっています。
本の帯には、
清水「半ば戦友のような」
湯浅「本当にそんな感じだったよね」
と書かれています。
これを見て、あなたはどう感じられますか?
私は心底嬉しくなりました。やっぱり、彼らはそういう志をもっていきていたんだ。そういう人たちが、日本にいたんだ。と。
おこがましいかもしれないけれど、私も「これまでの議論を超えたメタ的な、まさに社会全体の話に一気に引き上げられて、そういう視点を持ちながら、個別の施策の話をしていける」よう努力してきた一人である、という自負・自覚があります。
皆さんにも、是非、そのような自覚をもって生きていただきたいと思います。自覚をもつだけなら、自由です。
今日、私は清水氏と名刺交換しました。彼らに、そのような存在として認められるかどうかは分かりません。認められなくても、いいじゃないですか。まずは、気慨が大事です。この危機の時代にあって、少なくとも自分自身としてはそのような気慨をもっていきること。
そしてそれを、徐々に客観性をもったものに変えていけばいいと思います。気慨のないところには、そのようなレベルでの可能性は、何も生まれませんから。
彼は、私がもっとも期待する若手の一人です。NHKの元ディレクターで、最近もよく登場するので、顔を見れば知っている方も多いともいます。プロフィールは以下の通り。
http://www.mmz.kantei.go.jp/jp/m-magazine/backnumber/2010/shimizu.html
NPO法人 自殺対策支援センター ライフリンク代表
元NHK報道番組ディレクター(主に「クローズアップ現代」を担当)
2001年、自死遺児たちを一年がかりで取材して『お父さん、死なないで~親が自殺 遺された子どもたち~』を放送。それまで匿名で活動していた自死遺児の素顔をはじめて社会に伝えた番組は、大きな反響を呼ぶ。
その後も、遺児や自殺で亡くなった人の遺書、自殺対策等について取材を続けるが、「推進役」のいない日本の自殺対策に限界を感じて、2004年春にNHKを退職。自らが自殺対策の「つなぎ役」となって活動していこうと、同年秋にNPO法人ライフリンクを設立し、代表に就任する。2006年、「自殺対策の法制化を求める3万人署名(結果10万人分集まる)」を企画・展開して、『自殺対策基本法』の成立にも大きく貢献。
持論は「自殺対策とは『生きる支援』『いのちへの支援』である」ということ。作家やジャーナリスト、法律の専門家や医療関係者、クリエーター等との、幅広い人脈を活かして精力的に活動している。
『自殺実態白書2008』(ライフリンク発行、2008年)発行責任者。『闇の中に光を見いだす ~貧困と自殺の現場から~』(岩波ブックレット、湯浅誠氏との対談)、『「自殺社会」から「生き心地の良い社会」へ』(講談社文庫、上田紀行氏との対談)。
貧困問題の専門家・湯浅誠氏との対談には(上掲書P23)、
「清水・・・私は湯浅さんの活動を出会い前から色々見ていて、それでも安易に一緒に活動するのはよくないと思っていたわけです。自殺は自殺の問題一本で徹底して掘っていき、貧困は貧困の問題で掘っていけば、必ずどこかで同じ水脈にぶちあたるはずで、それを中途半端に合流し、一緒に声を上げたところで、力としては弱まってしまう。それぞれが徹底して掘っていけば、必ずどこかで合流するから、そのタイミングで一緒にやっていくのがいいんじゃないかと思ってたの。
湯浅 戦略家だね(笑)
清水 戦略家なんですよ、こう見えても(笑)。だからこそ、今、制度や仕組みでかえていかなければならないことは協働してやっていくのがいいし、我々が協働し、他の分野で同じ水脈に向かって掘っている人たちとも力を合わせていけば、これまでの議論を超えたメタ的な、まさに社会全体の話に一気に引き上げられて、そういう視点を持ちながら、個別の施策の話をしていけるのではないでしょうか。
湯浅 可能性が圧倒的に広がったとは思う。」
2人の経歴は、まさに「降りてゆく生き方」そのもの。そして現政権で依頼を受け内閣府参与になっています。
本の帯には、
清水「半ば戦友のような」
湯浅「本当にそんな感じだったよね」
と書かれています。
これを見て、あなたはどう感じられますか?
私は心底嬉しくなりました。やっぱり、彼らはそういう志をもっていきていたんだ。そういう人たちが、日本にいたんだ。と。
おこがましいかもしれないけれど、私も「これまでの議論を超えたメタ的な、まさに社会全体の話に一気に引き上げられて、そういう視点を持ちながら、個別の施策の話をしていける」よう努力してきた一人である、という自負・自覚があります。
皆さんにも、是非、そのような自覚をもって生きていただきたいと思います。自覚をもつだけなら、自由です。
今日、私は清水氏と名刺交換しました。彼らに、そのような存在として認められるかどうかは分かりません。認められなくても、いいじゃないですか。まずは、気慨が大事です。この危機の時代にあって、少なくとも自分自身としてはそのような気慨をもっていきること。
そしてそれを、徐々に客観性をもったものに変えていけばいいと思います。気慨のないところには、そのようなレベルでの可能性は、何も生まれませんから。
時間の神様
昨日の映像のバックナンバーhttp://www.stickam.jp/video/179827481
とのことです。ただ、残念ながら後半最後の30分がビデオが調子悪くて未録画になってしまいました。最後が色々なものとの関連を話した一番深い内容になっていたと思うので、ちょっと残念でした。が、今後色々な企画をやらせていただける感じなので、発展をご期待いただければ、と思います。
税金の方も何とか片付き、今日からやっと時間ができるかと思ったら、しかし、残務整理や25日の『降りてゆく生き方』江戸川区小岩上映会の準備や連絡などで、あっという間に時間が過ぎてしまいました。
明日も午後から、「自殺問題を考える講習会」「『降りてゆく生き方』プレ上映会」ともう一件、夜まで予定が入っていて、時間の神様がスケジュール管理してくれているのか、うまい具合に時間がつぶれていきます。
明後日は、太極拳をやっている区の施設の年に1回のサークル発表会で、私も太極拳サークルで参加します。まだ型も十分に憶えていない段階ですので、これからビデオを見て準備を始めます。
ゆったりした意識をつくって臨みたいので、ちゃんとしたブログの復帰もやはり月曜以降になってしまいますが、よろしくお願いいたします。
とのことです。ただ、残念ながら後半最後の30分がビデオが調子悪くて未録画になってしまいました。最後が色々なものとの関連を話した一番深い内容になっていたと思うので、ちょっと残念でした。が、今後色々な企画をやらせていただける感じなので、発展をご期待いただければ、と思います。
税金の方も何とか片付き、今日からやっと時間ができるかと思ったら、しかし、残務整理や25日の『降りてゆく生き方』江戸川区小岩上映会の準備や連絡などで、あっという間に時間が過ぎてしまいました。
明日も午後から、「自殺問題を考える講習会」「『降りてゆく生き方』プレ上映会」ともう一件、夜まで予定が入っていて、時間の神様がスケジュール管理してくれているのか、うまい具合に時間がつぶれていきます。
明後日は、太極拳をやっている区の施設の年に1回のサークル発表会で、私も太極拳サークルで参加します。まだ型も十分に憶えていない段階ですので、これからビデオを見て準備を始めます。
ゆったりした意識をつくって臨みたいので、ちゃんとしたブログの復帰もやはり月曜以降になってしまいますが、よろしくお願いいたします。
「友愛と経済:スピリチュアリティを現実に生かすために」お知らせ
今日のスピリチュアルTV、スカイプ初体験で、事前に小泉さんに教えてもらってテストしたのですが、最初うまくつながらず、ご覧いただいていた方には、ご迷惑をおかけしました。
http://spiritual-tv.com/live.html の過去の放送に載っているのかいないのか、確認してませんが、興味あったら見てください。
今日もこの準備でつぶれてしまったので、次回フィロソフィアのご案内をさせていただきます。
今回は私がコーディネーター的にやらせてもらいましたが、かなり期待できる内容になると思います。
是非、お越しください。
≪ 転送・転載 歓迎 ≫
☆. *・゜゜・*:.。.☆.。.: *・゜・*:.。.☆
2010年3月28日(日) 第28回 フィロソフィア
「友愛と経済:スピリチュアリティを現実に生かすために」
☆. *・゜゜・*:.。.☆.。.: *・゜・*:.。.☆
フィロソフィアは、平和活動にとっても重要な公共的霊性(スピリチュアリティー)について、哲学的観点を重視しながら考える会です。初めての方でもどなたでもお気軽にお越しください 。
☆. *・゜゜・*:.。.☆.。.: *・゜・*:.。.☆
ミ★ミ☆ミ★ミ☆ミ★ミ☆ミ★ミ☆ミ★
★日時★
2010年3月28日(日)13:30(開場13:00)~20:00頃
※部分参加も可能で、時間は流動的です。
★趣旨★
いよいよ、「友愛」をはじめとするスピリチュアルな理念が現実に意味を持ち始める時代になりました。
第1部では、1年前に制作・発表された『降りてゆく生き方』という映画に関して、その普及に尽力されている浅川博之氏をお招きし、紹介していただきます。
この映画は発表以来、各地で自主上映会が催され、作品のみでなく企画の段階からの全プロセスが興味深く、また社会変革の非常に斬新なムーブメントとして注目が高まっています。
第2部では、公認会計士の天野敦之氏をお招きし、 経済を中心にして、その具体的な姿を考えることにしたいと思います。
また、小林正弥『友愛革命は可能かーー 公共哲学から考える』(平凡社新書)が3月15日に刊行されるので、第3部では この本の紹介をかねて、友愛の政治経済について考えたいと思います。
★プログラム★
☆開場(13:00)
☆第1部(13:30~16:00)
『映画「降りてゆく生き方」に見る「人と人のつながり」』 ( 講師:浅川博之)
コメントと栃木「そうぞうの輪」の活動の紹介(講師:伯宮 幸明)
☆休憩(16:00~16:15)
☆第2部(16:15~18:00)
「スピリチュアリティとビジネス」 (講師:天野敦之)
☆休憩(18:00~18:30)
☆第3部(18:30~20:30)
「友愛の政治経済」(講師:小林正弥)
★主催★
フィロソフィア、 地球平和公共ネットワーク、 スピリチュアルな世界の健全な発展を願う会
★会場★
東京工業大学 田町キャンパス内 『キャンパスイノベーションセンター(CIC東京)』5階 509AB
※所在地 … 〒108-0023 東京都港区芝浦3-3-6
★アクセス★
☆JR線 田町駅 下車徒歩1分 または
☆都営線 三田駅 下車徒歩3分
★地図★
※下記のいずれかの地図でご確認ください。
☆東京工業大 田町キャンス
http://www.titech.ac.jp/about/campus/t.html
☆キャンパスイノベーションセンター東京
http://www.isl.or.jp/campusinnovation.html
★参加費★
☆資料代 1,000円
☆公共活動割引 700円(対象:平和運動など公共的運動のスタッフの方)
☆学生割引 500円
※寄付など歓迎。
★講師プロフィール★
第1部 浅川博之(あさかわひろゆき)
「虹の天使プロジェクト」代表
1954年生まれの千葉県市川市在住の56歳。
印刷会社の企画編集に携わり,出版社への企画提案や編集作業に関わりながら,地域で環境関連の市民活動グループ「虹の天使プロジェクト」を2008年に発足。
同年に開催した1000人講演会でつながった人を中心に170人以上の市民と一緒になって,平和で環境調和型の社会の実現をめざして活動を展開している。
昨年,ネットワーク『地球村』(日本を代表する環境活動団体)の高木善之代表の講演会やワークショップを3度開催。
今年は,2月,3月に,映画「降りていく生き方」の上映会の応援などを積極的に行ったり,高木義之氏を再び招いて,4月に佐倉市でトークライブ,7月にアチーブメント社の名物コーチの佐藤英郎氏とのコラボイベントを計画したりなど,組織を超えた人と人との大きなつながりの実現を追求している。
虹の天使プロジェクト(略して,虹プロ)にようこそ!
→ http://maruta.be/nijinotenshiproject
★内容★
映画「降りてゆく生き方」の夢縁や,NHKスペシャルの「無縁社会」などを映像を交えて紹介しながら,つながりの大事さをお伝えしたいと思っています。
1)虹の天使プロジェクトの誕生と目標 サラリーマンや主婦,
ニート,派遣の皆さんの集まりで何をしたいのか?
2)地域と日本の現状はどうなっているのか?
都会でつながりを失った人々と,地方でつながりを強めている皆さん
3)大人の夢の実現の仕方 夢を夢で終わらせないために。 等々
第2部 天野敦之
1975年生まれ。一橋大学商学部経営学科卒業。大学在学中に公認会計士第二次試験に合格。その後、同三次試験に合格し、公認会計士登録。大学卒業後、外資系コンサルティング・ファーム勤務を経て、証券会社の投資銀行部門でM&Aや資金調達、証券化等のアドバイザリー業務、グローバルマーケッツ部門で地域金融機関への提言業務に従事。その後、公認会計士天野敦之事務所を設立し、財務会計の視点から、人の幸せと企業の利益を両立させるためのアドバイスを提供。多くの企業の業績改善を実現している。
また、チベットサポート・チャリティセミナーの開催、歌手やヨーガ講師など異業種とのコラボレーションセミナーの開催など、公認会計士の枠を超えさまざまな分野で意欲的に活動中。
主な著書に、日本で一番売れている会計入門書30万部ロングセラー 『会計のことが面白いほどわかる本』(中経出版)人を幸せにする会計の考え方 『価値を創造する会計』(PHP研究所)「何のために働くのか」を見つめ直す感動の寓話 『君を幸せにする会社』(日本実業出版社)金融危機の本質にせまり新しい社会像を提示する『みんなが幸せになる「お金」と「経済」の話』(すばる舎)「すべてはつながっている」宇宙の真理に沿うビジネスを実現する方法『宇宙とつながる働き方』(総合法令)などがある。
公認会計士天野敦之事務所公式ホームページ http://sinzenbi.net/
★内容★
従来のビジネスは、短期的な利益最大化のために、つながりを分断し、人間をモノとして扱って効率化を極限まで追求してきました。その結果、働けば働くほど幸せから遠ざかり、地球環境は破壊され、投機的な株主を除くすべてのステークホルダーが犠牲になり、競争を勝ち抜いた人さえ本当の幸せを得られない社会ができあがってしまいました。この仕組みが限界に達したのが、現在の経済危機です。しかしこの経済危機は新しい社会に移行するチャンスであり、その移行のために、従来の「つながりを分断するビジネス」から「つながりを取り戻すビジネス」への転換が求められています。そのために必要なのが、ビジネスとスピリチュアリティの統合です。従来ビジネスにおいて無視されてきた精神性、目に見えないものを大切にする考え方、人間をモノとしてではなくかけがえのない生命として、愛そのものとして見る考え方が必須になります。この、ビジネスとスピリチュアリティの統合、そして私たち一人ひとりがどのように生きていけばいいのかについてお伝えしたいと思います。
★URL★
フィロソフィアHP http://global-spirituality.net/
地球平和公共ネットワークHP http://global-public-peace.net/
スピリチュアルな世界の健全な発展を願う会HP
http://soundspirituality.org/
http://spiritual-tv.com/live.html の過去の放送に載っているのかいないのか、確認してませんが、興味あったら見てください。
今日もこの準備でつぶれてしまったので、次回フィロソフィアのご案内をさせていただきます。
今回は私がコーディネーター的にやらせてもらいましたが、かなり期待できる内容になると思います。
是非、お越しください。
≪ 転送・転載 歓迎 ≫
☆. *・゜゜・*:.。.☆.。.: *・゜・*:.。.☆
2010年3月28日(日) 第28回 フィロソフィア
「友愛と経済:スピリチュアリティを現実に生かすために」
☆. *・゜゜・*:.。.☆.。.: *・゜・*:.。.☆
フィロソフィアは、平和活動にとっても重要な公共的霊性(スピリチュアリティー)について、哲学的観点を重視しながら考える会です。初めての方でもどなたでもお気軽にお越しください 。
☆. *・゜゜・*:.。.☆.。.: *・゜・*:.。.☆
ミ★ミ☆ミ★ミ☆ミ★ミ☆ミ★ミ☆ミ★
★日時★
2010年3月28日(日)13:30(開場13:00)~20:00頃
※部分参加も可能で、時間は流動的です。
★趣旨★
いよいよ、「友愛」をはじめとするスピリチュアルな理念が現実に意味を持ち始める時代になりました。
第1部では、1年前に制作・発表された『降りてゆく生き方』という映画に関して、その普及に尽力されている浅川博之氏をお招きし、紹介していただきます。
この映画は発表以来、各地で自主上映会が催され、作品のみでなく企画の段階からの全プロセスが興味深く、また社会変革の非常に斬新なムーブメントとして注目が高まっています。
第2部では、公認会計士の天野敦之氏をお招きし、 経済を中心にして、その具体的な姿を考えることにしたいと思います。
また、小林正弥『友愛革命は可能かーー 公共哲学から考える』(平凡社新書)が3月15日に刊行されるので、第3部では この本の紹介をかねて、友愛の政治経済について考えたいと思います。
★プログラム★
☆開場(13:00)
☆第1部(13:30~16:00)
『映画「降りてゆく生き方」に見る「人と人のつながり」』 ( 講師:浅川博之)
コメントと栃木「そうぞうの輪」の活動の紹介(講師:伯宮 幸明)
☆休憩(16:00~16:15)
☆第2部(16:15~18:00)
「スピリチュアリティとビジネス」 (講師:天野敦之)
☆休憩(18:00~18:30)
☆第3部(18:30~20:30)
「友愛の政治経済」(講師:小林正弥)
★主催★
フィロソフィア、 地球平和公共ネットワーク、 スピリチュアルな世界の健全な発展を願う会
★会場★
東京工業大学 田町キャンパス内 『キャンパスイノベーションセンター(CIC東京)』5階 509AB
※所在地 … 〒108-0023 東京都港区芝浦3-3-6
★アクセス★
☆JR線 田町駅 下車徒歩1分 または
☆都営線 三田駅 下車徒歩3分
★地図★
※下記のいずれかの地図でご確認ください。
☆東京工業大 田町キャンス
http://www.titech.ac.jp/about/campus/t.html
☆キャンパスイノベーションセンター東京
http://www.isl.or.jp/campusinnovation.html
★参加費★
☆資料代 1,000円
☆公共活動割引 700円(対象:平和運動など公共的運動のスタッフの方)
☆学生割引 500円
※寄付など歓迎。
★講師プロフィール★
第1部 浅川博之(あさかわひろゆき)
「虹の天使プロジェクト」代表
1954年生まれの千葉県市川市在住の56歳。
印刷会社の企画編集に携わり,出版社への企画提案や編集作業に関わりながら,地域で環境関連の市民活動グループ「虹の天使プロジェクト」を2008年に発足。
同年に開催した1000人講演会でつながった人を中心に170人以上の市民と一緒になって,平和で環境調和型の社会の実現をめざして活動を展開している。
昨年,ネットワーク『地球村』(日本を代表する環境活動団体)の高木善之代表の講演会やワークショップを3度開催。
今年は,2月,3月に,映画「降りていく生き方」の上映会の応援などを積極的に行ったり,高木義之氏を再び招いて,4月に佐倉市でトークライブ,7月にアチーブメント社の名物コーチの佐藤英郎氏とのコラボイベントを計画したりなど,組織を超えた人と人との大きなつながりの実現を追求している。
虹の天使プロジェクト(略して,虹プロ)にようこそ!
→ http://maruta.be/nijinotenshiproject
★内容★
映画「降りてゆく生き方」の夢縁や,NHKスペシャルの「無縁社会」などを映像を交えて紹介しながら,つながりの大事さをお伝えしたいと思っています。
1)虹の天使プロジェクトの誕生と目標 サラリーマンや主婦,
ニート,派遣の皆さんの集まりで何をしたいのか?
2)地域と日本の現状はどうなっているのか?
都会でつながりを失った人々と,地方でつながりを強めている皆さん
3)大人の夢の実現の仕方 夢を夢で終わらせないために。 等々
第2部 天野敦之
1975年生まれ。一橋大学商学部経営学科卒業。大学在学中に公認会計士第二次試験に合格。その後、同三次試験に合格し、公認会計士登録。大学卒業後、外資系コンサルティング・ファーム勤務を経て、証券会社の投資銀行部門でM&Aや資金調達、証券化等のアドバイザリー業務、グローバルマーケッツ部門で地域金融機関への提言業務に従事。その後、公認会計士天野敦之事務所を設立し、財務会計の視点から、人の幸せと企業の利益を両立させるためのアドバイスを提供。多くの企業の業績改善を実現している。
また、チベットサポート・チャリティセミナーの開催、歌手やヨーガ講師など異業種とのコラボレーションセミナーの開催など、公認会計士の枠を超えさまざまな分野で意欲的に活動中。
主な著書に、日本で一番売れている会計入門書30万部ロングセラー 『会計のことが面白いほどわかる本』(中経出版)人を幸せにする会計の考え方 『価値を創造する会計』(PHP研究所)「何のために働くのか」を見つめ直す感動の寓話 『君を幸せにする会社』(日本実業出版社)金融危機の本質にせまり新しい社会像を提示する『みんなが幸せになる「お金」と「経済」の話』(すばる舎)「すべてはつながっている」宇宙の真理に沿うビジネスを実現する方法『宇宙とつながる働き方』(総合法令)などがある。
公認会計士天野敦之事務所公式ホームページ http://sinzenbi.net/
★内容★
従来のビジネスは、短期的な利益最大化のために、つながりを分断し、人間をモノとして扱って効率化を極限まで追求してきました。その結果、働けば働くほど幸せから遠ざかり、地球環境は破壊され、投機的な株主を除くすべてのステークホルダーが犠牲になり、競争を勝ち抜いた人さえ本当の幸せを得られない社会ができあがってしまいました。この仕組みが限界に達したのが、現在の経済危機です。しかしこの経済危機は新しい社会に移行するチャンスであり、その移行のために、従来の「つながりを分断するビジネス」から「つながりを取り戻すビジネス」への転換が求められています。そのために必要なのが、ビジネスとスピリチュアリティの統合です。従来ビジネスにおいて無視されてきた精神性、目に見えないものを大切にする考え方、人間をモノとしてではなくかけがえのない生命として、愛そのものとして見る考え方が必須になります。この、ビジネスとスピリチュアリティの統合、そして私たち一人ひとりがどのように生きていけばいいのかについてお伝えしたいと思います。
★URL★
フィロソフィアHP http://global-spirituality.net/
地球平和公共ネットワークHP http://global-public-peace.net/
スピリチュアルな世界の健全な発展を願う会HP
http://soundspirituality.org/
“フリー”
明日は、昨日お伝えしたように、「スピリチュアルTV」 http://spiritual-tv.com/ に、PM9:00~ 出演させていただきます。
セミナーもそうですが、そういうものというのは、チラシ作りとか広報をする段階で、ある程度の線までは考えますが、実際に何を話かは、最後の最後にならないと決まりません。
そんなに早くから考えていても、そのときの自分の流れや社会の状況、参加者によって、そんな話する気がなくなったということが起きる可能性があり、そうなると2度手間になるからです。
で、今回も昨日の夜辺りから構成をボチボチ考え始めてますが、「神智学、ヨーガ・インド思想、文明論・・・スピチリュアルな観点から現在の危機を考える」というタイトルはつけたものの、ホリスティックな見方を徹底するという立場から、なぜ今、神智学やヨーガ・インド思想が重要か、というところまではお話しできたとして、その内容までは時間の関係で入れないな、と思ってます。
その重要性を理解していただく前に、個別の内容をお伝えしたところで、それは、知らない人には一つの派閥的な考え方としか受け取ってもらえないと思うからです。
まず、どこにも属さないニュートラル立場からスタートして検討を重ねたとき、そういったものの重要性が浮かび上がってくる、と、そういうところまで、明日はもっていければいいのではないか、と今は考えています。
すでに、私がやっていることや、神智学などに理解をいただいている方に、新たな情報を提供するよりも、今までそういったものに縁のなかった方に、いかに興味を持ってもらうか、という方に、重点を置きたいと思っております。
なので、このブログをご覧いただいている方には(そもそも1時間ですから)あまり目新しい話はないかもしれませんが、皆様が(私が書いているようなことに共感していただける場合)周囲の方にどのように伝えていくか、ということに関して、ご参考になれば、と思っています。
さて、話は変わりますが、この「スピリチュアルTV」、アップされているこれまでの映像も、かなり質の高い内容のものが多いと思います。(私は、パソコン画面を長時間見るのは辛いので、見ておりませんが、運営されている小泉さんとは親しくしており、一緒に参加した「フィロソフィア」の映像などが多いため、最近のものは内容を把握しています。)
しかも無料ですので、視聴する側としては、本当に有難いものだと思います。こういったものが無料で配信できる裏には、ネットならではの仕組みがうまく使われています。
スカイプも無料ですし、講師も自宅から発信するので、手間も経費もかかりません。
今日の「クローズアップ現代」は、この無料サービスを取り上げた、非常に興味深い内容でした。http://www.nhk.or.jp/gendai/ より
「タダでもうける?! “無料ビジネス”の舞台裏」
無料で読める電子書籍、無料で話せる国際電話、無料で楽しめる携帯ゲーム、無料で話題を呼ぶ最新の電子カルテシステム...。 今、一体どのように採算が取れているのか理解しがたいほどの"無料ビジネス"が急速に広がり、注目を集めている。これらのビジネスモデルは、従来のような広告収入で成り立つフリーペーパーや、最終商品に価格転嫁するお試しサンプルなどとは決定的に異なり、"タダ"から巨額の冨を生み出すことに成功しているのだ。
その背景にあるのが、金融危機以降の新たな経済学として注目される最新の「行動経済学」。人間の複雑で不合理的な心理を経済学に取り入れた分野だ。今後も成長を続けると言われ、様々な業種に影響を及ぼすと予想される"無料ビジネス"の不思議な舞台裏を探り、その将来を考える。
『フリー ~〈無料〉からお金を生みだす新戦略』(クリス・アンダーソン著、小林弘人・高橋則明訳、日本放送出版協会)という本もあります。アマゾンの「内容紹介」には、
「〈フリーミアム〉という新しいビジネスモデルを提唱し、ビット世界の無料経済に正面から取り組んだニューヨーク・タイムズ・ベストセラー」
なぜ、一番人気のあるコンテンツを有料にしてはいけないのか?
なぜ、ビット経済では95パーセントをタダにしてもビジネスが可能なのか?
あなたがどの業界にいようとも、〈無料〉との競争が待っている。
それは可能性の問題ではなく、時間の問題だ。
そのときあなたは、創造的にも破壊的にもなり得る
このフリーという過激な価格を味方につけることができるだろうか?
●無料のルール
1.デジタルのものは、遅かれ早かれ無料になる
2.アトムも無料になりたがるが、力強い足取りではない
3.フリーは止まらない
4.フリーからもお金儲けはできる
5.市場を再評価する
6.ゼロにする
7.遅かれ早かれフリーと競いあうことになる
8.ムダを受け入れよう
9.フリーは別のものの価値を高める
10.稀少なものではなく、潤沢なものを管理しよう
というようなことが書かれています。
フリーの流れには、本当に無償で社会貢献を目指そうとしているものと、フリーを一つの側面として適度な収益をあげたり過剰な収入を社会に還元するソーシャル・ビジネス的なもの、そして最初の経緯はともかく結果的にフリーを入口にして多大な利益をあげる利潤追求型のものまで、多様なものが広がっています。
しかし、いずれにしろ、ほとんどのビジネスが、フリーの影響を受けずにはいられない状況が生まれています。この動きは、近年お金に縛り付けられてきた人間の意識を解放することにつながっていることは確実でしょうし、やがては狡猾な考えが善意によって排除され、「モノからこころの時代」を実現するための重要な流れであることは、間違いないでしょう。
セミナーもそうですが、そういうものというのは、チラシ作りとか広報をする段階で、ある程度の線までは考えますが、実際に何を話かは、最後の最後にならないと決まりません。
そんなに早くから考えていても、そのときの自分の流れや社会の状況、参加者によって、そんな話する気がなくなったということが起きる可能性があり、そうなると2度手間になるからです。
で、今回も昨日の夜辺りから構成をボチボチ考え始めてますが、「神智学、ヨーガ・インド思想、文明論・・・スピチリュアルな観点から現在の危機を考える」というタイトルはつけたものの、ホリスティックな見方を徹底するという立場から、なぜ今、神智学やヨーガ・インド思想が重要か、というところまではお話しできたとして、その内容までは時間の関係で入れないな、と思ってます。
その重要性を理解していただく前に、個別の内容をお伝えしたところで、それは、知らない人には一つの派閥的な考え方としか受け取ってもらえないと思うからです。
まず、どこにも属さないニュートラル立場からスタートして検討を重ねたとき、そういったものの重要性が浮かび上がってくる、と、そういうところまで、明日はもっていければいいのではないか、と今は考えています。
すでに、私がやっていることや、神智学などに理解をいただいている方に、新たな情報を提供するよりも、今までそういったものに縁のなかった方に、いかに興味を持ってもらうか、という方に、重点を置きたいと思っております。
なので、このブログをご覧いただいている方には(そもそも1時間ですから)あまり目新しい話はないかもしれませんが、皆様が(私が書いているようなことに共感していただける場合)周囲の方にどのように伝えていくか、ということに関して、ご参考になれば、と思っています。
さて、話は変わりますが、この「スピリチュアルTV」、アップされているこれまでの映像も、かなり質の高い内容のものが多いと思います。(私は、パソコン画面を長時間見るのは辛いので、見ておりませんが、運営されている小泉さんとは親しくしており、一緒に参加した「フィロソフィア」の映像などが多いため、最近のものは内容を把握しています。)
しかも無料ですので、視聴する側としては、本当に有難いものだと思います。こういったものが無料で配信できる裏には、ネットならではの仕組みがうまく使われています。
スカイプも無料ですし、講師も自宅から発信するので、手間も経費もかかりません。
今日の「クローズアップ現代」は、この無料サービスを取り上げた、非常に興味深い内容でした。http://www.nhk.or.jp/gendai/ より
「タダでもうける?! “無料ビジネス”の舞台裏」
無料で読める電子書籍、無料で話せる国際電話、無料で楽しめる携帯ゲーム、無料で話題を呼ぶ最新の電子カルテシステム...。 今、一体どのように採算が取れているのか理解しがたいほどの"無料ビジネス"が急速に広がり、注目を集めている。これらのビジネスモデルは、従来のような広告収入で成り立つフリーペーパーや、最終商品に価格転嫁するお試しサンプルなどとは決定的に異なり、"タダ"から巨額の冨を生み出すことに成功しているのだ。
その背景にあるのが、金融危機以降の新たな経済学として注目される最新の「行動経済学」。人間の複雑で不合理的な心理を経済学に取り入れた分野だ。今後も成長を続けると言われ、様々な業種に影響を及ぼすと予想される"無料ビジネス"の不思議な舞台裏を探り、その将来を考える。
『フリー ~〈無料〉からお金を生みだす新戦略』(クリス・アンダーソン著、小林弘人・高橋則明訳、日本放送出版協会)という本もあります。アマゾンの「内容紹介」には、
「〈フリーミアム〉という新しいビジネスモデルを提唱し、ビット世界の無料経済に正面から取り組んだニューヨーク・タイムズ・ベストセラー」
なぜ、一番人気のあるコンテンツを有料にしてはいけないのか?
なぜ、ビット経済では95パーセントをタダにしてもビジネスが可能なのか?
あなたがどの業界にいようとも、〈無料〉との競争が待っている。
それは可能性の問題ではなく、時間の問題だ。
そのときあなたは、創造的にも破壊的にもなり得る
このフリーという過激な価格を味方につけることができるだろうか?
●無料のルール
1.デジタルのものは、遅かれ早かれ無料になる
2.アトムも無料になりたがるが、力強い足取りではない
3.フリーは止まらない
4.フリーからもお金儲けはできる
5.市場を再評価する
6.ゼロにする
7.遅かれ早かれフリーと競いあうことになる
8.ムダを受け入れよう
9.フリーは別のものの価値を高める
10.稀少なものではなく、潤沢なものを管理しよう
というようなことが書かれています。
フリーの流れには、本当に無償で社会貢献を目指そうとしているものと、フリーを一つの側面として適度な収益をあげたり過剰な収入を社会に還元するソーシャル・ビジネス的なもの、そして最初の経緯はともかく結果的にフリーを入口にして多大な利益をあげる利潤追求型のものまで、多様なものが広がっています。
しかし、いずれにしろ、ほとんどのビジネスが、フリーの影響を受けずにはいられない状況が生まれています。この動きは、近年お金に縛り付けられてきた人間の意識を解放することにつながっていることは確実でしょうし、やがては狡猾な考えが善意によって排除され、「モノからこころの時代」を実現するための重要な流れであることは、間違いないでしょう。
「スピボイ」と「スピリチュアルTV」のお知らせ
やっと、確定申告も目途がついてきました。
終わりに近づくと、それほど大変じゃないじゃん、と毎年思うのですが、取り掛かるまでが気が重いんですね。
毎年、暮が近づくと年賀状に追われる気分になり、それが終わると引き続い確定申告にずっと追われてる気分になります。
その他の締め切りとかの方がはるかに大変でも、こちらの方が気が重いですね。なかなか無執着に淡々と、とはできません。
逆に、それから解放されると、一番の開放感を感じます。私にとって毎年春は、確定申告の終わりとともにやってくる感じです。
そしてもうじき春、気分もかなり軽く、明るくなってきました。
そんなわけで、2・3日のうちには、しっかりした内容のブログを再開できると思いますが、今日はまだ、お知らせでお茶を濁させてください。
まず、和田達哉さんという方がやっている「スピボイ」に、取材された話がアップされました。
http://www.spiritualvoyagers.jp/
会話ですからそんなに深い話にはなっておりませんが、結構分量が多いので、私が考えている全体像的なものはある程度お伝えできていると思います。他にも著名人や面白そうな人のインタヴューが沢山ありますから、余裕があれば覗いてみてください。
それと明後日の3月11日(木)、テディ小泉さんがやっている、ネットの「スピリチュアルTV」 http://spiritual-tv.com/ に、PM9:00~
「神智学、ヨーガ・インド思想、文明論
・・・・・スピチリュアルな観点から現在の危機を考える」
というテーマで、出演予定です。
これも全体像をお伝えするような話ですが、そういえば「スピボイ」とはあまり重ならない話になると思います。
スカイプを使って自宅からの生放送ということで、うまくいくか多少不安はありますが、よろしければ、ご覧になってください。
終わりに近づくと、それほど大変じゃないじゃん、と毎年思うのですが、取り掛かるまでが気が重いんですね。
毎年、暮が近づくと年賀状に追われる気分になり、それが終わると引き続い確定申告にずっと追われてる気分になります。
その他の締め切りとかの方がはるかに大変でも、こちらの方が気が重いですね。なかなか無執着に淡々と、とはできません。
逆に、それから解放されると、一番の開放感を感じます。私にとって毎年春は、確定申告の終わりとともにやってくる感じです。
そしてもうじき春、気分もかなり軽く、明るくなってきました。
そんなわけで、2・3日のうちには、しっかりした内容のブログを再開できると思いますが、今日はまだ、お知らせでお茶を濁させてください。
まず、和田達哉さんという方がやっている「スピボイ」に、取材された話がアップされました。
http://www.spiritualvoyagers.jp/
会話ですからそんなに深い話にはなっておりませんが、結構分量が多いので、私が考えている全体像的なものはある程度お伝えできていると思います。他にも著名人や面白そうな人のインタヴューが沢山ありますから、余裕があれば覗いてみてください。
それと明後日の3月11日(木)、テディ小泉さんがやっている、ネットの「スピリチュアルTV」 http://spiritual-tv.com/ に、PM9:00~
「神智学、ヨーガ・インド思想、文明論
・・・・・スピチリュアルな観点から現在の危機を考える」
というテーマで、出演予定です。
これも全体像をお伝えするような話ですが、そういえば「スピボイ」とはあまり重ならない話になると思います。
スカイプを使って自宅からの生放送ということで、うまくいくか多少不安はありますが、よろしければ、ご覧になってください。
ボディワーク研究会、4月のワークショップのお知らせ
5年間、日曜日に続けてきたセミナーは、一先ず休止になりますが、代わって今年から力を入れようと思っているのが、ボディワーク研究会です。
これは、現代生活で失われてきた身体性を取り戻すとともに、都会生活におけるつながりを取り戻す、という点にもポイントをおいてやっていきたいと思っております。
先日「懐かしい未来」のMLで、「都市型エコビレッジ」に関する以下のようなメールが回ってきたので、講師グループの人たちに流したところ、予想以上に関心をもたれた人が多くいました。
このたび、JEPPでは新しく「えこのわラボ」と言う名前で築35年の老朽化したマンションを都市型エコビレッジにリノベーションする初台ワールドマンションプロジェクトを立ち上げました。
新宿から一駅の大都会のど真ん中に、まるで70年代にタイムスリップしたかのようなノスタルジックな懐かしい雰囲気の商店街があります。
そこを舞台にマンション住人を主体にした縦長屋のようなつながりのある暮らし方を創っていこうと言うプロジェクトが始動しました。それにあたって、都会型エコビレッジに興味ある方、現在、入居者募集中です! 一緒に新しい暮らし方を創り上げていきませんか。
お申し込み、お問い合わせ: econowalab@gmail.com
http://jepp.org/?page_id=176
今や「つながり」は多くの人の共通テーマになってるんですね。
ボディワーク研究会に話を戻して、4月のワークショップ、
4/7(水)の午前・午後、会場は三田福祉会館・集会室A です。
講師写真を含む同情報は、
午前 http://subtle-event.seesaa.net/article/143057198.html
午後 http://subtle-event.seesaa.net/article/143057610.html
で、ご覧いただけます。詳細は、以下の通りです。
(1)午前(10:00~12:00)
「アレクサンダー・テクニーク
~注意の向け方を変えることで世界が変わる。人生が変わる~」
講師:かわかみ ひろひこ
私たちに訪れる肩こり・腰痛などの不調、あるいは芸事・スポーツの上達の遅れの原因が、仮りに私たち自身が行っている、私たちをじゃまする動き(癖)だとしたら、いかがでしょうか?
それは、より快適になること、スポーツや芸事の上達、存在力を増すことの鍵を私たちが握っていることを意味します。
今回の講座では、注意の向け方を変えることによって、私たちの経験が変わることを体験していただきます。
楽器や踊りをされたい方はお道具を、愛用のハイヒールを履くときに足が痛む方はハイヒールを、パソコンの作業で身体がきつくなるかたはパソコンをお持ちください。
【講師プロフィール】
アレクサンダー・テクニックの学校 主宰
日本を代表するアレクサンダー・テクニークならびにボディマッピング教師のひとり(ATI-Alexander Technique International認定教師)。
演奏家・ダンサーなどのパフォーマーへのレッスンに定評がある。東京での最初のアレクサンダー教師養成コースの設立に参画し、5年弱1800時間超のスクーリングによる訓練を修了。またボディマッピング創始者ウィリアム・コナブル博士に1998年より継続的に指導を受け、2006年より指導者向け上級トレーニングを受ける。東京・横浜を中心に、札幌・仙台・浜松・福岡等でも定期的に指導中。演奏指導者向けのボディマッピング講座ソマティック・ベースの開講準備中。
【服装】 ズボン
しゃがんだときに膝・太もも・股関節周辺がピチピチしないもの。デニム素材は避けてください。
【費用】 一般2,000円 会員1,500円
---------------------------------------------------
(2)午後(14:00~16:00)
「エネルギーのレイヤーを知る、感じる。」
講師:山本 ユキ
エネルギーの世界には、さまざまな波動のレベルがあり、そこには、それぞれの世界が、この物質界と同じように存在しています。
それを的確に知覚した時に、はじめて確実に変化を起こしていくことが出来ます。
短い時間の中なので、まずはどのようエネルギーのレイヤーがあるのかという全体図と、その中でも一般的に最も興味をもたれるアストラルのレベルのお話を、したいと思います。
【講師プロフィール】
大林組・日本IBM・BMWJapanに勤務。
結婚後 企業向けのマナーインストラクターとなり、東京ガス・NTT 等の企業研修を行う。1997年より催眠療法・クレニオセイクラル・ハンズオンヒーリング・関係性ヒーリング等の手法を取り入れたセッションを行うとともに、企業やセラピストに向けてのワークショップおよびサロンの教育、プロデュースを行う。
今年5月にチネイザンプラクティショナーに認定され、養成講座のアシストもしており、西洋的アプローチに東洋的アプローチも加え統合し、さらに深いワークに取り組んでいる。
【服装】 ゆったりとした、くつろげる服装でお越しください。
【費用】 一般2,000円 会員1,500円
これは、現代生活で失われてきた身体性を取り戻すとともに、都会生活におけるつながりを取り戻す、という点にもポイントをおいてやっていきたいと思っております。
先日「懐かしい未来」のMLで、「都市型エコビレッジ」に関する以下のようなメールが回ってきたので、講師グループの人たちに流したところ、予想以上に関心をもたれた人が多くいました。
このたび、JEPPでは新しく「えこのわラボ」と言う名前で築35年の老朽化したマンションを都市型エコビレッジにリノベーションする初台ワールドマンションプロジェクトを立ち上げました。
新宿から一駅の大都会のど真ん中に、まるで70年代にタイムスリップしたかのようなノスタルジックな懐かしい雰囲気の商店街があります。
そこを舞台にマンション住人を主体にした縦長屋のようなつながりのある暮らし方を創っていこうと言うプロジェクトが始動しました。それにあたって、都会型エコビレッジに興味ある方、現在、入居者募集中です! 一緒に新しい暮らし方を創り上げていきませんか。
お申し込み、お問い合わせ: econowalab@gmail.com
http://jepp.org/?page_id=176
今や「つながり」は多くの人の共通テーマになってるんですね。
ボディワーク研究会に話を戻して、4月のワークショップ、
4/7(水)の午前・午後、会場は三田福祉会館・集会室A です。
講師写真を含む同情報は、
午前 http://subtle-event.seesaa.net/article/143057198.html
午後 http://subtle-event.seesaa.net/article/143057610.html
で、ご覧いただけます。詳細は、以下の通りです。
(1)午前(10:00~12:00)
「アレクサンダー・テクニーク
~注意の向け方を変えることで世界が変わる。人生が変わる~」
講師:かわかみ ひろひこ
私たちに訪れる肩こり・腰痛などの不調、あるいは芸事・スポーツの上達の遅れの原因が、仮りに私たち自身が行っている、私たちをじゃまする動き(癖)だとしたら、いかがでしょうか?
それは、より快適になること、スポーツや芸事の上達、存在力を増すことの鍵を私たちが握っていることを意味します。
今回の講座では、注意の向け方を変えることによって、私たちの経験が変わることを体験していただきます。
楽器や踊りをされたい方はお道具を、愛用のハイヒールを履くときに足が痛む方はハイヒールを、パソコンの作業で身体がきつくなるかたはパソコンをお持ちください。
【講師プロフィール】
アレクサンダー・テクニックの学校 主宰
日本を代表するアレクサンダー・テクニークならびにボディマッピング教師のひとり(ATI-Alexander Technique International認定教師)。
演奏家・ダンサーなどのパフォーマーへのレッスンに定評がある。東京での最初のアレクサンダー教師養成コースの設立に参画し、5年弱1800時間超のスクーリングによる訓練を修了。またボディマッピング創始者ウィリアム・コナブル博士に1998年より継続的に指導を受け、2006年より指導者向け上級トレーニングを受ける。東京・横浜を中心に、札幌・仙台・浜松・福岡等でも定期的に指導中。演奏指導者向けのボディマッピング講座ソマティック・ベースの開講準備中。
【服装】 ズボン
しゃがんだときに膝・太もも・股関節周辺がピチピチしないもの。デニム素材は避けてください。
【費用】 一般2,000円 会員1,500円
---------------------------------------------------
(2)午後(14:00~16:00)
「エネルギーのレイヤーを知る、感じる。」
講師:山本 ユキ
エネルギーの世界には、さまざまな波動のレベルがあり、そこには、それぞれの世界が、この物質界と同じように存在しています。
それを的確に知覚した時に、はじめて確実に変化を起こしていくことが出来ます。
短い時間の中なので、まずはどのようエネルギーのレイヤーがあるのかという全体図と、その中でも一般的に最も興味をもたれるアストラルのレベルのお話を、したいと思います。
【講師プロフィール】
大林組・日本IBM・BMWJapanに勤務。
結婚後 企業向けのマナーインストラクターとなり、東京ガス・NTT 等の企業研修を行う。1997年より催眠療法・クレニオセイクラル・ハンズオンヒーリング・関係性ヒーリング等の手法を取り入れたセッションを行うとともに、企業やセラピストに向けてのワークショップおよびサロンの教育、プロデュースを行う。
今年5月にチネイザンプラクティショナーに認定され、養成講座のアシストもしており、西洋的アプローチに東洋的アプローチも加え統合し、さらに深いワークに取り組んでいる。
【服装】 ゆったりとした、くつろげる服装でお越しください。
【費用】 一般2,000円 会員1,500円
シャンカラチャーリア
今日のスワミ・メダサーナンダ氏による『ウパニシャッド』のセミナー、本場でないと味わえない雰囲気をかげた、という意味で、得難いセミナーだったと思います。
日本語が完璧ではないので、通常の言語的情報量としては少ないのですが、その分自分の頭で能動的に考えたり味わったりせざるを得ず、逆に深く学べる部分があることは、新しい発見でした。
サンスクリット語の発音や、短時間でも瞑想されたときの姿や波動など、やはり違うなあ、と感じました。
スワミの方で用意していただき、配布した資料の中に、「ムンダカ・ウパニシャッド」の次の文章がありました。
「低次の知識というのは、ヴェーダ(リグ、サーマ、ヤジュル、およびアタルヴァ)の知識であり、また音韻学、祭事学、文法学、語源学、韻律学および天文学の知識である」
「高次の知識というのは、それによって不変の存在を知ることのできる知識である。これによって賢者には、感覚を超えたもの、原因を持たないもの、言葉で言いあらわせないもの、眼も耳も持たず手も足も持たないもの、一切に遍満し、もっとも微細なものより微細であり──永遠で、すべてのものの根源であるものが、あますところなく啓示される」
ヴェーダまで、低次の知識の中に入るんですね。そうすると、私がやってきたようなセミナーはすべて、低次の知識といわざるをえません。
ただ、私も今回勉強して初めて分かってきたのですが(昨日の記事を参照してください)、ヴェーダも、「サンヒター」と「ブラーフマナ」の部分は、神々(デーヴァ、自然霊)を制御する方法であって、ハイアラーキーの大師方たちとつながるレベルのものではないようです。
(これに関しては、アリス・ベイリーなどには、過去に行われていた儀式の重要性は薄れている、というような表現があったと思います。一方で超越瞑想のグループの研究、『人間の整理』等にまとめられているマントラの科学に関しては、未知の重要な真理を開示する可能性を秘めていると思います。)
それに対して、「ウパニシャッド」はアートマン・ブラーフマンに関する知識、相対ではなくて絶対の知識であって、明らかに前者とはレベルの異なるものです。で、スワミに聞いてみました。「ウパニシャッドは、低次の知識なのでしょうか? 高次の知識なのでしょうか?」と。
その答は、「ウパニシャッドを、単に知識として学ぶだけなら低次の知識です。でも、本当に解脱を目指して学ぶならば高次の知識ですが」という答え。ごもっともですね。
私は率直にいって、まだ当分低次の知識として学ぶ段階ですね。
では、それはくだらないことか、というと私は今の時代、非常に重要なことだという確信をもっています。何度も書いているように、今の時代は、類稀な人類の危機点という特別な時期です。こういう時には、個人の解脱よりも人類全体の救済が優先されるべきです。
神智学とともにウパニシャッドのような権威ある知識をきちんと理解し、他の人たちとコミュニケーションをとっていくのが、自分の役目だと思っています(こんなこと書いたらまずいなあ、きちんと理解しなきゃなんなくなって)。
もちろん、「人類全体の救済のために、私は高次の知識を学ぶ」という選択はあります。しかしそれは個人の段階や適性などの問題であって、「高次の学び方のみが尊く、低次の学び方はくだらない」ということではないと、私は考えています。
さて、この「ウパニシャッド」からヴェーダーンタ哲学を確立したのが、インド哲学史上最大の巨人といわれるシャンカラでした(700~750年頃)。「アーチャーリヤ」は先生という意味で、それをつけて(歴代のその後継者も含め)シャンカラーチャーリヤといわれます。
ベンジャミン・クレーム氏がマイトレーヤのオーバーシャドーを受けた一人としてあげているのも、このシャンカラだと思います。
アリス・ベイリーの『ハイラーキーの出現』(上)P382には、「教えるアバター」の一人として、その名前が挙がっています。
「教えるアバター」とは、「思考や意識の領域に新しい音色を響かせ、必要とされる次なる真理を明らかにし、人類の霊的な発達に光を投げかける言葉を発し、真理を系統立てる」方で、「彼らは第二光線のエネルギー系統に沿ってキリストの部門に現われ、ハイラーキーのフォースを表現する」存在であるとのことです。
ヴィヴェーカーナンダの、確か『ギャーナ・ヨーガ』には、インドの宗教改革者として、仏陀とともに、その後の乱れを改革した存在として、シャンカラの名前があがっていました。
また、「スワミ」僧団の起源も、シャンカラにあるということだったと思います。つまり、スワミとついているのは、シャンカラの弟子であることの表明である、ということが確か『あるヨギの自叙伝』に書かれていたと思います。この辺も確認したかったのですが、すぐにはできませんでした。
このシャンカラには、不明の点が多いのですが、主要作品としては、
『ブラフマ・スートラ』の註解
10に及ぶ『ウパニシャッド』の註解
『バガヴァッド・ギーター』の註解
『ヨーガ・スートラ』の註解に対する複註
などがあります。高次の知識を学ぶための大々的な情報整備をしてくださったのですね。
インドの専門家以外、あまり知られていないシャンカラに関して、この際、情報整理するために、以下、ウィキペディアからも引用させていただきます。
初代シャンカラ(Adi Shankara)は、マラヤーリ人の8世紀に活躍した中世インドの思想家。梵我一如思想、不二一元論を提唱した
「神の御足の教師」として知られた彼は、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の教義を強化する最初の哲学者であった。彼の教えは原因を必要とせず存立するところのブラフマン(梵)と、アートマン(我)は同一であるという主張に基づく。スマートラの伝統において、インド神話ではシャンカラはシヴァ神の異名である。
シャンカラは、講話と他の哲学者との議論を通して自身の教えを伝達するため、インドを旅行した。彼は、ポスト仏教としてのヒンドゥー教とアドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の布教の歴史の発展において、重要な役割を担う4つの僧院を設立した。
今日においても全てが現存しているという、サンスクリットで書かれた彼の著書は、アドヴァイタ(非二元性)の教義を確立することに関する。シャンカラは教えを説く際に、ウパニシャッドや他のヒンドゥー教の聖典の広範囲から引用を行った。更に、サーンキヤ学派や仏教に似た考え方を持つ一派の批判に対する反駁の内容を自身の著書に含めた。(ウパデーシャサーハスリー)
シャンカラはヴェーダーンタの代表的な哲学者であるが、その思想は仏教の類似性が高く「仮面の仏教徒」と呼ばれることがある。彼は仏教哲学をヴェーダーンタ哲学に吸収する役割を担った。
パドマパーダ、ハスターマラカ、トータカーチャーリヤ、ヴァールティカカーラの4人の弟子がいた。
東西南北に4つの座を設け、4人の弟子をそれぞれに配置した。現在はシャンカラーチャーリヤの座と呼ばれ、ヴェーダーンタを体得した人でないとその座につけないので、空座になることも多い。初代のシャンカラを表すときにはアーディ(「初代」の意)をつける。
日本語が完璧ではないので、通常の言語的情報量としては少ないのですが、その分自分の頭で能動的に考えたり味わったりせざるを得ず、逆に深く学べる部分があることは、新しい発見でした。
サンスクリット語の発音や、短時間でも瞑想されたときの姿や波動など、やはり違うなあ、と感じました。
スワミの方で用意していただき、配布した資料の中に、「ムンダカ・ウパニシャッド」の次の文章がありました。
「低次の知識というのは、ヴェーダ(リグ、サーマ、ヤジュル、およびアタルヴァ)の知識であり、また音韻学、祭事学、文法学、語源学、韻律学および天文学の知識である」
「高次の知識というのは、それによって不変の存在を知ることのできる知識である。これによって賢者には、感覚を超えたもの、原因を持たないもの、言葉で言いあらわせないもの、眼も耳も持たず手も足も持たないもの、一切に遍満し、もっとも微細なものより微細であり──永遠で、すべてのものの根源であるものが、あますところなく啓示される」
ヴェーダまで、低次の知識の中に入るんですね。そうすると、私がやってきたようなセミナーはすべて、低次の知識といわざるをえません。
ただ、私も今回勉強して初めて分かってきたのですが(昨日の記事を参照してください)、ヴェーダも、「サンヒター」と「ブラーフマナ」の部分は、神々(デーヴァ、自然霊)を制御する方法であって、ハイアラーキーの大師方たちとつながるレベルのものではないようです。
(これに関しては、アリス・ベイリーなどには、過去に行われていた儀式の重要性は薄れている、というような表現があったと思います。一方で超越瞑想のグループの研究、『人間の整理』等にまとめられているマントラの科学に関しては、未知の重要な真理を開示する可能性を秘めていると思います。)
それに対して、「ウパニシャッド」はアートマン・ブラーフマンに関する知識、相対ではなくて絶対の知識であって、明らかに前者とはレベルの異なるものです。で、スワミに聞いてみました。「ウパニシャッドは、低次の知識なのでしょうか? 高次の知識なのでしょうか?」と。
その答は、「ウパニシャッドを、単に知識として学ぶだけなら低次の知識です。でも、本当に解脱を目指して学ぶならば高次の知識ですが」という答え。ごもっともですね。
私は率直にいって、まだ当分低次の知識として学ぶ段階ですね。
では、それはくだらないことか、というと私は今の時代、非常に重要なことだという確信をもっています。何度も書いているように、今の時代は、類稀な人類の危機点という特別な時期です。こういう時には、個人の解脱よりも人類全体の救済が優先されるべきです。
神智学とともにウパニシャッドのような権威ある知識をきちんと理解し、他の人たちとコミュニケーションをとっていくのが、自分の役目だと思っています(こんなこと書いたらまずいなあ、きちんと理解しなきゃなんなくなって)。
もちろん、「人類全体の救済のために、私は高次の知識を学ぶ」という選択はあります。しかしそれは個人の段階や適性などの問題であって、「高次の学び方のみが尊く、低次の学び方はくだらない」ということではないと、私は考えています。
さて、この「ウパニシャッド」からヴェーダーンタ哲学を確立したのが、インド哲学史上最大の巨人といわれるシャンカラでした(700~750年頃)。「アーチャーリヤ」は先生という意味で、それをつけて(歴代のその後継者も含め)シャンカラーチャーリヤといわれます。
ベンジャミン・クレーム氏がマイトレーヤのオーバーシャドーを受けた一人としてあげているのも、このシャンカラだと思います。
アリス・ベイリーの『ハイラーキーの出現』(上)P382には、「教えるアバター」の一人として、その名前が挙がっています。
「教えるアバター」とは、「思考や意識の領域に新しい音色を響かせ、必要とされる次なる真理を明らかにし、人類の霊的な発達に光を投げかける言葉を発し、真理を系統立てる」方で、「彼らは第二光線のエネルギー系統に沿ってキリストの部門に現われ、ハイラーキーのフォースを表現する」存在であるとのことです。
ヴィヴェーカーナンダの、確か『ギャーナ・ヨーガ』には、インドの宗教改革者として、仏陀とともに、その後の乱れを改革した存在として、シャンカラの名前があがっていました。
また、「スワミ」僧団の起源も、シャンカラにあるということだったと思います。つまり、スワミとついているのは、シャンカラの弟子であることの表明である、ということが確か『あるヨギの自叙伝』に書かれていたと思います。この辺も確認したかったのですが、すぐにはできませんでした。
このシャンカラには、不明の点が多いのですが、主要作品としては、
『ブラフマ・スートラ』の註解
10に及ぶ『ウパニシャッド』の註解
『バガヴァッド・ギーター』の註解
『ヨーガ・スートラ』の註解に対する複註
などがあります。高次の知識を学ぶための大々的な情報整備をしてくださったのですね。
インドの専門家以外、あまり知られていないシャンカラに関して、この際、情報整理するために、以下、ウィキペディアからも引用させていただきます。
初代シャンカラ(Adi Shankara)は、マラヤーリ人の8世紀に活躍した中世インドの思想家。梵我一如思想、不二一元論を提唱した
「神の御足の教師」として知られた彼は、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の教義を強化する最初の哲学者であった。彼の教えは原因を必要とせず存立するところのブラフマン(梵)と、アートマン(我)は同一であるという主張に基づく。スマートラの伝統において、インド神話ではシャンカラはシヴァ神の異名である。
シャンカラは、講話と他の哲学者との議論を通して自身の教えを伝達するため、インドを旅行した。彼は、ポスト仏教としてのヒンドゥー教とアドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の布教の歴史の発展において、重要な役割を担う4つの僧院を設立した。
今日においても全てが現存しているという、サンスクリットで書かれた彼の著書は、アドヴァイタ(非二元性)の教義を確立することに関する。シャンカラは教えを説く際に、ウパニシャッドや他のヒンドゥー教の聖典の広範囲から引用を行った。更に、サーンキヤ学派や仏教に似た考え方を持つ一派の批判に対する反駁の内容を自身の著書に含めた。(ウパデーシャサーハスリー)
シャンカラはヴェーダーンタの代表的な哲学者であるが、その思想は仏教の類似性が高く「仮面の仏教徒」と呼ばれることがある。彼は仏教哲学をヴェーダーンタ哲学に吸収する役割を担った。
パドマパーダ、ハスターマラカ、トータカーチャーリヤ、ヴァールティカカーラの4人の弟子がいた。
東西南北に4つの座を設け、4人の弟子をそれぞれに配置した。現在はシャンカラーチャーリヤの座と呼ばれ、ヴェーダーンタを体得した人でないとその座につけないので、空座になることも多い。初代のシャンカラを表すときにはアーディ(「初代」の意)をつける。
「ウパニシャッド」のテキスト
「ヴェーダ」という言葉は、狭義と広義の2通りに使われます。
狭義の「ヴェーダ」は、賛歌や祭式における呪文等を集めた「サンヒター(本集)」のみを指します。
広義には、「サンヒター」の後に続く、「ブラーフマナ」(祭儀書。祭式の実行方法を規定し、賛歌等の意味を解釈する)、「アーラニヤカ」(森林書。「森林の中で伝授される秘儀」を説く。祭式に関する説明と共に、哲学的問題にも言及する)、そして「ウパニシャッド」までを含みます。
「ウパニシャッド」は、主として「神の知識」について述べられています。
どこに、どのようにして、神は存在するのか? 人と宇宙は、どのような形で神とつながっているのか? どのようにして、またなぜ、人は神を悟ろうと努めるべきなのか? 人が彼を悟るとまさにどうなるのか? このようなことすべてを、「ウパニシャッド」から学ぶことができます。
「ウパニシャッド」は「奥義書」とも言われます。「ヴェーダの極地(アンタ)」ということで、「ウパニシャッド」を中心に研究する学派を「ヴェーダーンタ学派」というわけです。
「ウパニシャッド」に関しては、私はこれまで 佐保田 鶴治氏の『ウパニシャッド』(平河出版)をもっていたのですが、かなり重たい感じがして、手が出せませんでした。それで、今回準備を兼ねて読もうと思っていたのですが、そこまでの余裕がなく、その代わりちょうど日本ヴェーダーンタ協会から、抄訳のようなものが出ました(『ウパニシャッド』)ので、こちらを読みました。上述の説明も、同書・用語解説(および同協会の『ヒンドゥイズム』)を参照しております。
とても訳が分かりやすく、思ったよりも全然読みやすくて、親しみがもてました。インド関連の本を読んでいて出てくる話題の原点が書かれてあるので、「あ、ここから話が始まってるのかぁ」と感激することが何回かありました。
これは、超お勧めです。
日本ヴェーダーンタ協会から出ている本は、(明日、会長にお話しいただくからってゴマをすってるわけじゃなく)外れがない、というか、本当にどれも素晴らしいです。
でも、本まで買う気はない、という方、もっと感激したのは、
“Hinduism & Vedanta”という、多分、協会関係者によるサイト
http://www.ne.jp/asahi/hindu/vedanta/index.html
があり、ここには、「イーシャー・ウパニシャッド」や「バガヴァッド・ギーター」のシャンカラによる注釈の訳などが、細かく載せられているのですね。
ネットって、(情報をちゃんと選ばなければいけませんが)本当に勉強するのに楽で、有難いですね。
野沢正信氏よる「インド思想史略説」というのも、信頼できそうです。
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch1
ウパニシャッドの概説のところ、引用させていただきます。
第3節 ウパニシャッド
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/upanisad.htm
1. ヴェーダの最後の哲学
ウパニシャッドは、ヴェーダの最後を飾る哲学的な文献群である。さまざまな哲人が登場し、宇宙の根源、人間の本質についてさまざまな思索を展開するが、おおむねヴェーダ祭式と神話に源を持つ。とりわけヴェーダ祭式において宇宙を支配する原理・力と見なされたブラフマンについての考究がなされる。その考究の結実がウパニシャッドの代表的な思想、梵我一如の思想である。ウパニシャッドはしばしば「奥義書」と訳されるように、全般的に神秘主義的な傾向が強く、秘教的である。
このようにウパニシャッドは、ヴェーダの神話と祭式の伝統の上に成り立ったものであるけれども、ウパニシャッドの成立は、社会の変化と無縁ではない。それらの思索を展開した人々のなかには、ヴェーダの祭式をになったバラモンとは異なる階級の思想家も何人か現れる。その思想は、それまでのバラモンの祭式思想、祭式万能主義と明らかに異質である。
ウパニシャッドの思想の特徴は、<祭式(yajna)に対する知(jnAna)の優位>である。ウパニシャッドにおける考究は、完全な祭式を実行するために必要な知識の追究からはなれ、知ることそのものの追究へ力点が移動している。あるものを知り、そのものになることによって、そのものの力を獲得することができる。宇宙を支配する原理を知ることによって、その宇宙原理に自己が同化し、自在な境地に到達できると考えるのである。
ブラーフマナが「祭式は力なり」とするのに対し、ウパニシャッドは「知は力なり」とする。この場合の知は「分析的、合理的な知」とは異なる。ここで追究される知は、概念を論理的に構成して得られる知ではない。ことばを離れた、体験によって知られる直観的な知である。「知ること」とは「なること」であるとみなされる。瞑想や苦行を通じて、宇宙を支配する神秘力に直接触れ、体験することである。そのため自己を絶対的な存在と合一させる神秘体験が目指される。
ギリシアにおいては、神話的な思考から脱却することにより、哲学が生まれた。これに対し、インドにおいては、呪術的な思考を究極にまで押し進め、神秘的なものの精髄を追究することから哲学的な思索が生まれた。この点で、ギリシアとインドの思想は対照的である。
狭義の「ヴェーダ」は、賛歌や祭式における呪文等を集めた「サンヒター(本集)」のみを指します。
広義には、「サンヒター」の後に続く、「ブラーフマナ」(祭儀書。祭式の実行方法を規定し、賛歌等の意味を解釈する)、「アーラニヤカ」(森林書。「森林の中で伝授される秘儀」を説く。祭式に関する説明と共に、哲学的問題にも言及する)、そして「ウパニシャッド」までを含みます。
「ウパニシャッド」は、主として「神の知識」について述べられています。
どこに、どのようにして、神は存在するのか? 人と宇宙は、どのような形で神とつながっているのか? どのようにして、またなぜ、人は神を悟ろうと努めるべきなのか? 人が彼を悟るとまさにどうなるのか? このようなことすべてを、「ウパニシャッド」から学ぶことができます。
「ウパニシャッド」は「奥義書」とも言われます。「ヴェーダの極地(アンタ)」ということで、「ウパニシャッド」を中心に研究する学派を「ヴェーダーンタ学派」というわけです。
「ウパニシャッド」に関しては、私はこれまで 佐保田 鶴治氏の『ウパニシャッド』(平河出版)をもっていたのですが、かなり重たい感じがして、手が出せませんでした。それで、今回準備を兼ねて読もうと思っていたのですが、そこまでの余裕がなく、その代わりちょうど日本ヴェーダーンタ協会から、抄訳のようなものが出ました(『ウパニシャッド』)ので、こちらを読みました。上述の説明も、同書・用語解説(および同協会の『ヒンドゥイズム』)を参照しております。
とても訳が分かりやすく、思ったよりも全然読みやすくて、親しみがもてました。インド関連の本を読んでいて出てくる話題の原点が書かれてあるので、「あ、ここから話が始まってるのかぁ」と感激することが何回かありました。
これは、超お勧めです。
日本ヴェーダーンタ協会から出ている本は、(明日、会長にお話しいただくからってゴマをすってるわけじゃなく)外れがない、というか、本当にどれも素晴らしいです。
でも、本まで買う気はない、という方、もっと感激したのは、
“Hinduism & Vedanta”という、多分、協会関係者によるサイト
http://www.ne.jp/asahi/hindu/vedanta/index.html
があり、ここには、「イーシャー・ウパニシャッド」や「バガヴァッド・ギーター」のシャンカラによる注釈の訳などが、細かく載せられているのですね。
ネットって、(情報をちゃんと選ばなければいけませんが)本当に勉強するのに楽で、有難いですね。
野沢正信氏よる「インド思想史略説」というのも、信頼できそうです。
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm#ch1
ウパニシャッドの概説のところ、引用させていただきます。
第3節 ウパニシャッド
http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/upanisad.htm
1. ヴェーダの最後の哲学
ウパニシャッドは、ヴェーダの最後を飾る哲学的な文献群である。さまざまな哲人が登場し、宇宙の根源、人間の本質についてさまざまな思索を展開するが、おおむねヴェーダ祭式と神話に源を持つ。とりわけヴェーダ祭式において宇宙を支配する原理・力と見なされたブラフマンについての考究がなされる。その考究の結実がウパニシャッドの代表的な思想、梵我一如の思想である。ウパニシャッドはしばしば「奥義書」と訳されるように、全般的に神秘主義的な傾向が強く、秘教的である。
このようにウパニシャッドは、ヴェーダの神話と祭式の伝統の上に成り立ったものであるけれども、ウパニシャッドの成立は、社会の変化と無縁ではない。それらの思索を展開した人々のなかには、ヴェーダの祭式をになったバラモンとは異なる階級の思想家も何人か現れる。その思想は、それまでのバラモンの祭式思想、祭式万能主義と明らかに異質である。
ウパニシャッドの思想の特徴は、<祭式(yajna)に対する知(jnAna)の優位>である。ウパニシャッドにおける考究は、完全な祭式を実行するために必要な知識の追究からはなれ、知ることそのものの追究へ力点が移動している。あるものを知り、そのものになることによって、そのものの力を獲得することができる。宇宙を支配する原理を知ることによって、その宇宙原理に自己が同化し、自在な境地に到達できると考えるのである。
ブラーフマナが「祭式は力なり」とするのに対し、ウパニシャッドは「知は力なり」とする。この場合の知は「分析的、合理的な知」とは異なる。ここで追究される知は、概念を論理的に構成して得られる知ではない。ことばを離れた、体験によって知られる直観的な知である。「知ること」とは「なること」であるとみなされる。瞑想や苦行を通じて、宇宙を支配する神秘力に直接触れ、体験することである。そのため自己を絶対的な存在と合一させる神秘体験が目指される。
ギリシアにおいては、神話的な思考から脱却することにより、哲学が生まれた。これに対し、インドにおいては、呪術的な思考を究極にまで押し進め、神秘的なものの精髄を追究することから哲学的な思索が生まれた。この点で、ギリシアとインドの思想は対照的である。
ウパニシャッドの歴史
今回のセミナー、講師のスワミ・メダサーナンダ氏は、プロフィールにあるようにインドでも権威のあるラーマクリシュナ僧団の大学の学長を12年間務め、1993年に訪日以来、日本ヴェーダーンタ協会の会長を務められています。
とても博識で、日本語もかなりお上手ではありますが、やはり日本人とは違い聞きとりづらいところもあると思いますので、セミナーにご参加いただける方のために、予備知識をお伝えしておきたいと思います。
まずは、ヴェーダとの関連の歴史です。
ヨーガや、インドの聖者の本を読んでいると、様々なウパニシャッドからの引用がたくさん出てきますが、一度全体像をしっておくのも興味深く、理解が深まります。
自分で勉強して、自分の言葉でまとめたいところですが、一昨日書いたように、まったく時間に余裕がないため、以下、ウィキペディアに分かりやすくまとまっていたので、拝借・引用させていただきます。
ある程度勉強された方には、馴染みの名前が並んでいると思います。まだあまりよく知らないけど、これから本格的に勉強しようと思う方は、目で見ただけでは覚えないので、名前を声に出して読んでみてください。
ウパニシャッドは、サンスクリットで書かれた一連の書物で、一般には奥義書と訳される。約200以上ある書物の総称である。各ウパニシャッドは仏教以前から存在したものから、16世紀に作られたものまであり、成立時期もまちまちである。
ウパニシャッドの語源について、「近くに座す」ととるのが一般的である。それが秘儀・秘説といった意味になり、現在のような文献の総称として用いられるようになったと広く考えられている。
後世の作であるムクティカー・ウパニシャッドにおいて108のウパニシャッドが列記されていることから、108のウパニシャッドが伝統的に認められてきた。その中でも10数点の古い時代に成立したものを特に古ウパニシャッドと呼ぶ。多くの古ウパニシャッドは紀元前500年前後に成立し、ゴータマ・ブッダ以前に成立したものと、ゴータマ・ブッダ以後に成立したものとある。古ウパニシャッドはバラモン教の教典ヴェーダの最後の部分に属し、ヴェーダーンタとも言われる。
古ウパニシャッド:
初期:紀元前800年から紀元前500年にかけて成立
中期:紀元前500年から紀元前200年にかけて成立
後期:紀元前200年以降に成立
初期:
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド:白ヤジュル・ヴェーダ:初期 第1期
ヤージュニャヴァルキヤの教えが含まれる。アートマンに到達しアートマンからブラフマンに溶け込むニルヴァーナの解説が含まれる。
チャーンドーギア・ウパニシャッド:サーマ・ヴェーダ:初期 第1期
アイタレーヤ・ウパニシャッド:リグ・ヴェーダ:初期 第2期
カウシータキ・ウパニシャッド:リグ・ヴェーダ:初期 第2期
タイッティリーヤ・ウパニシャッド:黒ヤジュル・ヴェーダ:初期 第2期
ケーナ・ウパニシャッド:サーマ・ヴェーダ:初期 第3期
イーシャー・ウパニシャッド:白ヤジュル・ヴェーダ:初期 第3期
中期:
カタ・ウパニシャッド(カータカ・ウパニシャッド):黒ヤジュル・ヴェーダ:中期(紀元前350年から紀元前300年頃)
ムンダカ・ウパニシャッド:アタルヴァ・ヴェーダ:中期
ブラシュナ・ウパニシャッド:黒ヤジュル・ヴェーダ:中期
シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド:黒ヤジュル・ヴェーダ:中期(紀元前300年から紀元前200年頃)
後期:
マイトリ・ウパニシャッド(マイトラーヤナ・ウパニシャッド):黒ヤジュル・ヴェーダ:後期(紀元前200年頃)
マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド:アタルヴァ・ヴェーダ:後期(1年から200年頃)
マハーナーラーヤナ・ウパニシャッド:黒ヤジュル・ヴェーダ:後期
とても博識で、日本語もかなりお上手ではありますが、やはり日本人とは違い聞きとりづらいところもあると思いますので、セミナーにご参加いただける方のために、予備知識をお伝えしておきたいと思います。
まずは、ヴェーダとの関連の歴史です。
ヨーガや、インドの聖者の本を読んでいると、様々なウパニシャッドからの引用がたくさん出てきますが、一度全体像をしっておくのも興味深く、理解が深まります。
自分で勉強して、自分の言葉でまとめたいところですが、一昨日書いたように、まったく時間に余裕がないため、以下、ウィキペディアに分かりやすくまとまっていたので、拝借・引用させていただきます。
ある程度勉強された方には、馴染みの名前が並んでいると思います。まだあまりよく知らないけど、これから本格的に勉強しようと思う方は、目で見ただけでは覚えないので、名前を声に出して読んでみてください。
ウパニシャッドは、サンスクリットで書かれた一連の書物で、一般には奥義書と訳される。約200以上ある書物の総称である。各ウパニシャッドは仏教以前から存在したものから、16世紀に作られたものまであり、成立時期もまちまちである。
ウパニシャッドの語源について、「近くに座す」ととるのが一般的である。それが秘儀・秘説といった意味になり、現在のような文献の総称として用いられるようになったと広く考えられている。
後世の作であるムクティカー・ウパニシャッドにおいて108のウパニシャッドが列記されていることから、108のウパニシャッドが伝統的に認められてきた。その中でも10数点の古い時代に成立したものを特に古ウパニシャッドと呼ぶ。多くの古ウパニシャッドは紀元前500年前後に成立し、ゴータマ・ブッダ以前に成立したものと、ゴータマ・ブッダ以後に成立したものとある。古ウパニシャッドはバラモン教の教典ヴェーダの最後の部分に属し、ヴェーダーンタとも言われる。
古ウパニシャッド:
初期:紀元前800年から紀元前500年にかけて成立
中期:紀元前500年から紀元前200年にかけて成立
後期:紀元前200年以降に成立
初期:
ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド:白ヤジュル・ヴェーダ:初期 第1期
ヤージュニャヴァルキヤの教えが含まれる。アートマンに到達しアートマンからブラフマンに溶け込むニルヴァーナの解説が含まれる。
チャーンドーギア・ウパニシャッド:サーマ・ヴェーダ:初期 第1期
アイタレーヤ・ウパニシャッド:リグ・ヴェーダ:初期 第2期
カウシータキ・ウパニシャッド:リグ・ヴェーダ:初期 第2期
タイッティリーヤ・ウパニシャッド:黒ヤジュル・ヴェーダ:初期 第2期
ケーナ・ウパニシャッド:サーマ・ヴェーダ:初期 第3期
イーシャー・ウパニシャッド:白ヤジュル・ヴェーダ:初期 第3期
中期:
カタ・ウパニシャッド(カータカ・ウパニシャッド):黒ヤジュル・ヴェーダ:中期(紀元前350年から紀元前300年頃)
ムンダカ・ウパニシャッド:アタルヴァ・ヴェーダ:中期
ブラシュナ・ウパニシャッド:黒ヤジュル・ヴェーダ:中期
シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッド:黒ヤジュル・ヴェーダ:中期(紀元前300年から紀元前200年頃)
後期:
マイトリ・ウパニシャッド(マイトラーヤナ・ウパニシャッド):黒ヤジュル・ヴェーダ:後期(紀元前200年頃)
マーンドゥーキヤ・ウパニシャッド:アタルヴァ・ヴェーダ:後期(1年から200年頃)
マハーナーラーヤナ・ウパニシャッド:黒ヤジュル・ヴェーダ:後期
今度の日曜日の『ウパニシャッド』セミナーのご案内 など
長らく続けてきた大井町駅前「きゅりあん」での毎月1回のセミナー、4月からは会場のある品川区民優先で抽選会が行われるため、定期的使用が難しいため、これが最後となります。
サトルエネルギー学会の秘教科学分科会の場をお借りして日曜日の午前・午後を通した1日のセミナーを始めたのは2005年2月でしたから、ちょうど5年間続けたことになります。
想い起せばその第1回目は、日本ヴェーダ・センターのトウドウ先生にやっていただいた(タイトルは正確に思い出せませんが)『ヴェーダとインド思想』でした。そして最後が日本ヴェーダーンタ協会・会長のスワミ・メダサーナンダ氏によるヴェーダの奥義書『ウパニシャッド』というのも、なかなか意義深い感じがします。
その間に、色々な先生に来ていただき、普通ではなかなか知りえないような深い智識を学ばせていただきました。その全過程が私にとって、ヴェーダの奥義を伺うための準備だった、といえるのかもしれません。
この5年間、振り返ってとても長いようでもあり、またアッという間でもあるような気がします。慌ただしく過ごしてまいりましたので、知識・情報は取り入れられても内面がどれほど成長できたかは心もとないものがありますが、今回のセミナーに臨むにあたり、その面にも意識を向けたいと思っています。
といっても、昨日書いたように外に意識を向けなければいけない仕事で多忙のため、そういう意味では最悪の時期ですが、これが一番のカルマ・ヨーガ修行ですね。
今回のセミナーはまた、今年1月からの「インドの聖典シリーズ」、『ヨーガ・スートラ』『バガヴァッド・ギーター』に続く締めくくりでもあります。
内容および詳細は、以下の通りです。奮ってご参加ください。
【内容】
ヴェーダは、インドの最も古く、また最も重要な聖典である。全ての正統なヒンドゥ教徒は、彼らの信仰の源泉と、その最高の書物としての権威とをヴェーダに認める。
ヴェーダは全部で四つある。すなわち、リグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、そしてアタルヴァ・ヴェーダである。それらはそれぞれ二つの部分に分けられている。すなわち、祭式[行為]部と知識部である。前者は主に讃歌、供犠や祭式に関する指示や、それらの遂行の決まりから成り立っている。後者は、神の知識、宗教的な真実の最高の局面に関わるものであり、ウパニシャッドと呼ばれる。
ウパニシャッドの文法的な意味である「うやうやしく近くに坐すこと」は、真摯な弟子が師から学んでいる様子を生き生きと思い起こさせる。その言葉はまた「秘密の教え」を意味する。──確かに秘密である。何故なら、ある教えは、霊的にそれを受け取る準備ができており、それに相応しい者にのみ与えられるのであるから。さらに他の解釈が、偉大な七世紀の註釈家であるシャンカラによって支持されている。すなわち、神の知識──「ブラフマンの知識、無知という足かせを破壊し、最高の到達点である解脱へと導く知識」である。
[午前] ヴェーダとウパニシャッドの全体像
[午後] ムンダカ・ウパニシャッドよりの解説、瞑想
【講師のプロフィール】
師は世界的に活動しているラーマクリシュナ・ミッションの僧です。
このミッションは、宗教の調和を信条とし、インドに本部を置く宗教と慈善の団体です。
師の生誕地はインドの西ベンガルであり、その後カルカッタ大学で法律と現代歴史を勉強し、1974年ラーマクリシュナ僧団に入団しました。1980年より、ラーマクリシュナ僧団の有名な大学の学長を12年間務め、1993年からはミッションの日本支部の会長を務めています。
現在は、インドで培われた霊性、そしてヨーガの道徳・心のあり方・宗教的な事柄について、日本の各地・島々で、時には海外にも出かけて、講演を行っています。
今まで、師はたくさんの雑誌に文章を書いてきました。特に、インドの歴史、宗教、文化の中心地として有名なバラナシ(ベナレス)を詳しく調べた師の本は、世界的に評価されています。また、ディヤーナムという瞑想ガイドのCDは、世界で販売されています。
場所:きゅりあん 5階 第2講習室
日時:2010年3月7日(日)
午前10:00~12:30
午後13:30~16:30
全日10:00~16:30
費用:午前/午後 学会員2,500円 非会員3,000円
全日 学会員4,000円 非会員5,000円
申込:kamio@subtle-eng.com ※氏名、電話をご連絡ください
★追伸★
「スピリチュアルな世界観の健全な発展を願う会」などでご一緒している、スピリチュアル・コンベンション創始者 のテディ小泉さんが運営されているネットの『スピリチュアルTV』http://spiritual-tv.com/ に、3月11日(木)PM9:00~ 出させていただくことになりました。
「神智学、ヨーガ・インド思想、文明論・・・・・スピチリュアルな観点から現在の危機を考える」
というタイトルでお話しすることを考えております。
サトルエネルギー学会の秘教科学分科会の場をお借りして日曜日の午前・午後を通した1日のセミナーを始めたのは2005年2月でしたから、ちょうど5年間続けたことになります。
想い起せばその第1回目は、日本ヴェーダ・センターのトウドウ先生にやっていただいた(タイトルは正確に思い出せませんが)『ヴェーダとインド思想』でした。そして最後が日本ヴェーダーンタ協会・会長のスワミ・メダサーナンダ氏によるヴェーダの奥義書『ウパニシャッド』というのも、なかなか意義深い感じがします。
その間に、色々な先生に来ていただき、普通ではなかなか知りえないような深い智識を学ばせていただきました。その全過程が私にとって、ヴェーダの奥義を伺うための準備だった、といえるのかもしれません。
この5年間、振り返ってとても長いようでもあり、またアッという間でもあるような気がします。慌ただしく過ごしてまいりましたので、知識・情報は取り入れられても内面がどれほど成長できたかは心もとないものがありますが、今回のセミナーに臨むにあたり、その面にも意識を向けたいと思っています。
といっても、昨日書いたように外に意識を向けなければいけない仕事で多忙のため、そういう意味では最悪の時期ですが、これが一番のカルマ・ヨーガ修行ですね。
今回のセミナーはまた、今年1月からの「インドの聖典シリーズ」、『ヨーガ・スートラ』『バガヴァッド・ギーター』に続く締めくくりでもあります。
内容および詳細は、以下の通りです。奮ってご参加ください。
【内容】
ヴェーダは、インドの最も古く、また最も重要な聖典である。全ての正統なヒンドゥ教徒は、彼らの信仰の源泉と、その最高の書物としての権威とをヴェーダに認める。
ヴェーダは全部で四つある。すなわち、リグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、そしてアタルヴァ・ヴェーダである。それらはそれぞれ二つの部分に分けられている。すなわち、祭式[行為]部と知識部である。前者は主に讃歌、供犠や祭式に関する指示や、それらの遂行の決まりから成り立っている。後者は、神の知識、宗教的な真実の最高の局面に関わるものであり、ウパニシャッドと呼ばれる。
ウパニシャッドの文法的な意味である「うやうやしく近くに坐すこと」は、真摯な弟子が師から学んでいる様子を生き生きと思い起こさせる。その言葉はまた「秘密の教え」を意味する。──確かに秘密である。何故なら、ある教えは、霊的にそれを受け取る準備ができており、それに相応しい者にのみ与えられるのであるから。さらに他の解釈が、偉大な七世紀の註釈家であるシャンカラによって支持されている。すなわち、神の知識──「ブラフマンの知識、無知という足かせを破壊し、最高の到達点である解脱へと導く知識」である。
[午前] ヴェーダとウパニシャッドの全体像
[午後] ムンダカ・ウパニシャッドよりの解説、瞑想
【講師のプロフィール】
師は世界的に活動しているラーマクリシュナ・ミッションの僧です。
このミッションは、宗教の調和を信条とし、インドに本部を置く宗教と慈善の団体です。
師の生誕地はインドの西ベンガルであり、その後カルカッタ大学で法律と現代歴史を勉強し、1974年ラーマクリシュナ僧団に入団しました。1980年より、ラーマクリシュナ僧団の有名な大学の学長を12年間務め、1993年からはミッションの日本支部の会長を務めています。
現在は、インドで培われた霊性、そしてヨーガの道徳・心のあり方・宗教的な事柄について、日本の各地・島々で、時には海外にも出かけて、講演を行っています。
今まで、師はたくさんの雑誌に文章を書いてきました。特に、インドの歴史、宗教、文化の中心地として有名なバラナシ(ベナレス)を詳しく調べた師の本は、世界的に評価されています。また、ディヤーナムという瞑想ガイドのCDは、世界で販売されています。
場所:きゅりあん 5階 第2講習室
日時:2010年3月7日(日)
午前10:00~12:30
午後13:30~16:30
全日10:00~16:30
費用:午前/午後 学会員2,500円 非会員3,000円
全日 学会員4,000円 非会員5,000円
申込:kamio@subtle-eng.com ※氏名、電話をご連絡ください
★追伸★
「スピリチュアルな世界観の健全な発展を願う会」などでご一緒している、スピリチュアル・コンベンション創始者 のテディ小泉さんが運営されているネットの『スピリチュアルTV』http://spiritual-tv.com/ に、3月11日(木)PM9:00~ 出させていただくことになりました。
「神智学、ヨーガ・インド思想、文明論・・・・・スピチリュアルな観点から現在の危機を考える」
というタイトルでお話しすることを考えております。
女性たちの勇気ある行動
前回最後に書いたように、映画『降りてゆく生き方』、ほぼ1ヵ月後の3月25日、私の自宅のすぐ傍の江戸川区小岩アーバンプラザホールというところで、午前・午後・夜間の3回、開催されることになりました。
発起人は、江戸川区議会議員の上田令子さん。http://blog.livedoor.jp/edomam/archives/51805185.html
写真ではマドンナ系議員のように見えますが、なかなか芯の通った活動をしていて、区議会では厳しい追及をし、旧態依然たる体質の議員たちから発言を奪われたりもして奮闘しているようです。
我が家のそばでは、東京都と千葉県を隔てる江戸川に「スーパー堤防」なるものをつくろうという訳の分からない計画が進行していて、何人かの知人の家もそれに引っかかり、その計画が実行されれば立ち退きを迫られることになります。何百年かに一度起こるか起こらないかの大洪水に備え、わずかの地域をその危険から守るために“兆”に達するようなお金が使われようとしていて(この辺の記述は正確に調べてません)オカシイな、オカシイなと、直接は関係ない周辺住民も囁きあってはいたのですが、なかなか実際には腰を上げていませんでした。
その問題に上田さんは取組んでいて、なかなか議会に突破口を見いだせなかった中で、この企画を思いついたとか。ということで、前回市川の開催に協力した中では私が一番近い地元住民で、これは協力しないわけにはいかないな、という流れになりました。
この映画、上映を機会に人と人のつながりを取り戻し社会を変えていくことを大きな狙いとしていますが、今回のような実際の地域問題との絡みで上映されたことは、あまりないのではないか、と思います。
そういう意味では画期的な試みになるかもしれません。
お近くの方は、これを機会にぜひお越しください。または近くのご友人がいたら、ご紹介ください。
もともと私は、「これからは地方の時代、ローカリゼーションが大切」とは思いながらも、抽象的なことばかり考えている人間のため、基本的問題意識を共有する地域の人たちと関わりたくてもなかなか話が噛み合わない(だろう)ことが多く、どこから関わっていいか手をこまねいていたところもあり、今回はちょうどいい機会を与えられたと思っています。
去年8月1日「文化のローカリゼーション」 http://holisticreading.blog62.fc2.com/blog-category-7.html
もともとこの時期、手つかずの確定申告も近づいて、忙しいのを覚悟していたのですが、こちらの企画はあと3週間に迫っていて、1日も遅らせるわけにはいかない状況もあって、日曜から想定外のことで時間がくわれ、14日くらいまで乗り切るのが精一杯という状況になりそうです。
書きたいことは一杯あるのですが、時間のない中、ブログの方、多少手抜きになることも多いかと思いますが、お許しください。
さて、今日3月3日のクローズアップ現代http://www.nhk.or.jp/gendai/、
「終わらぬイラク~高遠菜穂子さんの6年~」というテーマでした。
「2004年、自己責任論争を巻き起こしたイラクでの高遠菜穂子さんらの人質事件。あれからおよそ6年、日本人の中からイラク問題が忘れられていく中で、高遠さんは、ひっそりと、しかし絶えることなくイラクへの支援を続けてきた。アメリカ軍も撤退に向けて動き出す中で、イラクの治安はいまだ回復していない。 ブッシュの戦争への支持を真っ先に打ち出した日本。事件後の自らへの報道を思い出すといまだにトラウマで激しい不安に襲われるという高遠さん。しかし今、「日本人と向き合いたい」と考え、初めてカメラの前で自らの心のうちを明かした。 イラクの隣国ヨルダンを拠点に続けている彼女たち民間レベルの支援の現場を取材、また高遠さんへのロングインタビューで、人質事件、その後の6年、そしてなぜいまなお支援を続けるのか、その思いを聞く。」
あのときは、小泉首相―福田幹事長の体制でしたでしょうか(これもいい加減です)。高遠さんの“無責任”な行動がマスコミで批判され、「自己責任」として追求されて自殺寸前まで追い込められたようです。
実は私も、その当時はテレビを見て「無責任な奴だなあ」と思った一人でした。その後、「高遠さんの話を聞く会」などのチラシを見て、同情すべき点もあるのだなあと思っていましたが、今日テレビを見て、素晴らしい活動をしてた人なんだなあと、考えを新たにしました。
報道も問題でしたが、無責任だなどと思って、申し訳なかった。今日が、高遠さんにとって、復権を果たせた日であったことを願っています。
今日のスタジオゲストは、ジャーナリストの江川紹子さんでした。
オウム事件以来の、この方のヒューマニスティックな報道活動も、注目に値すべきですね。
雛祭りの日、女性たちの勇気ある行動に、目を開かれる思いがしました。
発起人は、江戸川区議会議員の上田令子さん。http://blog.livedoor.jp/edomam/archives/51805185.html
写真ではマドンナ系議員のように見えますが、なかなか芯の通った活動をしていて、区議会では厳しい追及をし、旧態依然たる体質の議員たちから発言を奪われたりもして奮闘しているようです。
我が家のそばでは、東京都と千葉県を隔てる江戸川に「スーパー堤防」なるものをつくろうという訳の分からない計画が進行していて、何人かの知人の家もそれに引っかかり、その計画が実行されれば立ち退きを迫られることになります。何百年かに一度起こるか起こらないかの大洪水に備え、わずかの地域をその危険から守るために“兆”に達するようなお金が使われようとしていて(この辺の記述は正確に調べてません)オカシイな、オカシイなと、直接は関係ない周辺住民も囁きあってはいたのですが、なかなか実際には腰を上げていませんでした。
その問題に上田さんは取組んでいて、なかなか議会に突破口を見いだせなかった中で、この企画を思いついたとか。ということで、前回市川の開催に協力した中では私が一番近い地元住民で、これは協力しないわけにはいかないな、という流れになりました。
この映画、上映を機会に人と人のつながりを取り戻し社会を変えていくことを大きな狙いとしていますが、今回のような実際の地域問題との絡みで上映されたことは、あまりないのではないか、と思います。
そういう意味では画期的な試みになるかもしれません。
お近くの方は、これを機会にぜひお越しください。または近くのご友人がいたら、ご紹介ください。
もともと私は、「これからは地方の時代、ローカリゼーションが大切」とは思いながらも、抽象的なことばかり考えている人間のため、基本的問題意識を共有する地域の人たちと関わりたくてもなかなか話が噛み合わない(だろう)ことが多く、どこから関わっていいか手をこまねいていたところもあり、今回はちょうどいい機会を与えられたと思っています。
去年8月1日「文化のローカリゼーション」 http://holisticreading.blog62.fc2.com/blog-category-7.html
もともとこの時期、手つかずの確定申告も近づいて、忙しいのを覚悟していたのですが、こちらの企画はあと3週間に迫っていて、1日も遅らせるわけにはいかない状況もあって、日曜から想定外のことで時間がくわれ、14日くらいまで乗り切るのが精一杯という状況になりそうです。
書きたいことは一杯あるのですが、時間のない中、ブログの方、多少手抜きになることも多いかと思いますが、お許しください。
さて、今日3月3日のクローズアップ現代http://www.nhk.or.jp/gendai/、
「終わらぬイラク~高遠菜穂子さんの6年~」というテーマでした。
「2004年、自己責任論争を巻き起こしたイラクでの高遠菜穂子さんらの人質事件。あれからおよそ6年、日本人の中からイラク問題が忘れられていく中で、高遠さんは、ひっそりと、しかし絶えることなくイラクへの支援を続けてきた。アメリカ軍も撤退に向けて動き出す中で、イラクの治安はいまだ回復していない。 ブッシュの戦争への支持を真っ先に打ち出した日本。事件後の自らへの報道を思い出すといまだにトラウマで激しい不安に襲われるという高遠さん。しかし今、「日本人と向き合いたい」と考え、初めてカメラの前で自らの心のうちを明かした。 イラクの隣国ヨルダンを拠点に続けている彼女たち民間レベルの支援の現場を取材、また高遠さんへのロングインタビューで、人質事件、その後の6年、そしてなぜいまなお支援を続けるのか、その思いを聞く。」
あのときは、小泉首相―福田幹事長の体制でしたでしょうか(これもいい加減です)。高遠さんの“無責任”な行動がマスコミで批判され、「自己責任」として追求されて自殺寸前まで追い込められたようです。
実は私も、その当時はテレビを見て「無責任な奴だなあ」と思った一人でした。その後、「高遠さんの話を聞く会」などのチラシを見て、同情すべき点もあるのだなあと思っていましたが、今日テレビを見て、素晴らしい活動をしてた人なんだなあと、考えを新たにしました。
報道も問題でしたが、無責任だなどと思って、申し訳なかった。今日が、高遠さんにとって、復権を果たせた日であったことを願っています。
今日のスタジオゲストは、ジャーナリストの江川紹子さんでした。
オウム事件以来の、この方のヒューマニスティックな報道活動も、注目に値すべきですね。
雛祭りの日、女性たちの勇気ある行動に、目を開かれる思いがしました。
真のホリスティック教育とは
1月16・17日にご紹介した『降りてゆく生き方』、一昨日、市川であった上映会およびその後の交流会に参加して感じたことを、書かせていただきます。
実際の映画の初めて見たのですが、HPやプレ上映会である程度の想像はついていたので、内容はほぼ予想通りのものでした。
オーディションに参加した素人の人たちが千人近く出ているので、演技として洗練されていないところがあるのは止むをえませんが、それも手作りの味わいがあって、親しめるものでした。
この1月くらい、ほんのわずかですが関わって感じたのは、この映画やその存在を知って感動するだけでなく、実際にその普及に協力しようと動き出す人たちの割合の多さです。
それだけ、多くの人がこういったものを求め、また社会を変えていくことが必要で、これがその起点になり得ると感じているのだと思います。
この映画の存在を私が知ったのは、「懐かしい未来」のMLに、面識のあるA氏が私の家から便のいいところで中心になって開催するということで、HPを見たことでした。
その後、私も協力者のMLに入れていただきましたが、そこでのA氏の熱の入れようの凄いこと。私より少し年上で、出版社に勤務されていますが、仕事ちゃんとできているのか? と傍目から心配になるくらい頻繁に、プレ上映会を色々なところで開催されていました。
それだけ入れ込む理由は何かのか? 心に引っかかっていましたが、その謎が解明できた気がします。
この映画、企画の段階から試練に次ぐ試練で、しかしその都度何問をクリエーティヴに解決して完成に至ったわけですが、最初の脚本の案を全面破棄したあと、様々な人たちにインタヴューして、生の声を聞いています。
プレ上映会では、そのインタヴューのごく一部編集したものを、見せていただきましたが、その中に山之内義一郎という人が出てきました。
この方、映画の舞台になる新潟県の小学校の校長さんだった人で、「学校に森をつくった校長」としてホリスティック教育関係者には有名な方です。
ホリスティック教育という概念は、もともと北米でできたもので、シュタイナーやクリシュナムルティの教育等がその考え方にマッチしているといわれ、日本でも重視されています。(拙編著『未来を開く教育者たち~シュタイナー・クリシュナムルティ・モンテッソーリ…』は、ホリスティック教育協会に所属する先生方の協力を得てつくったものです。)
日本でも、江戸時代以前の寺子屋などは、かなりホリスティックな教育を行っていたのですが、西洋の学校教育が導入されて以降、そういった要素が無くなってしまっていました。そんな中にあって、「学校の森づくり」は日本のオリジナルなホリスティック教育として、最も評価の高いものでした。
子どもたちは、いのちの生きづく森の中で、自分の興味のおもむくままに遊びながら、準備された教材では絶対に不可能な多様なものを学び、森とともに成長していきます。
ただ、私は日本のホリスティック教育のあり方には、飽き足りないものを感じていました。「学校の森づくり」は確かに素晴らしいけれど、どこでもできるわけではなく、膨大なエネルギーを要します。それを何とか実現しなければ、と頑張るより、もっと多様な他の方法をクリエーティヴに創造していけないものか、と思っていました。
それとあと、全体の半分くらいがシュタイナー教育(の関係者)に占められている感じがあり、確かにシュタイナー教育も素晴らしいのですが、伝統・風土の違う日本にはそのままではうまく適用できないところもあるのです。
それと、いずれにしても、幼児~学校教育中心で、高等教育から社会人・生涯教育に関するホリスティック教育に関しては、関係者の関心が薄いのです。
私は、ホリスティックですからあらゆる年齢がバランスよく対象にされないといけないと思いますし、今の社会の現状、変革を考えたときには、大人のホリスティック教育こそが、必要であると考えていました。
「ホリスティック・リーディング」なども、その一つの提唱です。
しかし、なかなかいい方法が見つからなかったのですが、今回の『降りてゆく生き方』の運営のプロセスは、これぞまさに大人を中心にしたホリスティック教育といえるものではないか、と感じました。
『降りてゆく生き方』という映画は一つの教材であって、前後のプレ&アフター上映会を通して様々な交流を行う中で、お互いに学び合い、新たに創造していく。
まだ各所に粗削りなところが散見されますが、未完成だからこその良さというものがあると思います。それを積極的に評価したい。多分、私も関わって、もっといいものにしたい、というチャレンジ精神を起こさせてくれるところがあるのでは、と思います。
これまでもそうだったように、中心メンバーが権威にならずに謙虚さを保つことができれば、これからどんどん改良され、今はまだ想像もつかないことが生み出されていくことと思います。
作品としての映画と、関わった人と、ムーヴメントと、社会が、一体となって進化していくことが可能です。
1月11日に書いた「トランスアクション/トランスミッション/トランスフォーメーション」が、見事に実現できています。しかも、この教材は簡単にどこでも持っていって、教育の場を展開できます。
山之内義一郎氏が関わったというのも、非常に象徴的な感じがします。
これまで最高とされていた成果を含みつつさらに発展させた、日本発の素晴らしいホリスティック教育の教材であり、システムだといえるのではないか、と思います。
A氏に話を戻し、彼は以前、学校の教科書づくりの編集に長年携わっていたとのこと。それをつくりながら、その限界を感じ、こんなもので学ばせるのは愚民教育だとすら感じたことがある、と吐露されていました。
それで育った子どもたちは今、大人になっています。何とかかつての罪滅ぼしがしたい、というような意識ももたれているようでした。
彼があれ程入れ込んでこの映画の普及に情熱を燃やしているのは、教育関係者としての良心と、新たな可能性に期待しているからこそだと、感じました。
この映画、ほぼ1ヵ月後の3月25日、私の自宅のすぐ傍の江戸川区小岩アーバンプラザホールというところで、午前・午後・夜間の3回、開催されることになってました。
私が発起人として関わったわけではなく、たまたまだったのですが、何かのご縁と思い、ホリスティック教育および社会変革の実践的活動と思って、本腰を入れて協力しようと思っております。
当日は多分、受付け辺りで立ってると思います。
【第一回】 (託児あり・要予約) 開演 10:30~(開場 10:00)
【第二回】 (託児あり・要予約) 開演 14:30~(開場 14:00)
【第三回】 開演 18:00~(開場 17:30) ※本編開始 18:30~
上映時間:1時間45分 各回とも上映前にスペシャルトークがあります。
(前売/当日) 中学生以上 1,500円 小学生以下 500円
映画のHPは、http://www.nippon-p.org/mov.html
お申込みは、(1) 必要事項を記載の上、以下の宛先へメールを送信して下さい。追ってお返事いたします。
お申込み先 メールアドレス: edogawa325@nippon-p.org
必要事項: お名前/住所/電話番号/回(第一回、第二回、第三回)/枚数
お問合わせは、私の方にメール yahuvmh@f4.dion.ne.jp でも結構です。是非、皆様と会場でお目にかかりたいと思います。よろしくお願いいたします。
実際の映画の初めて見たのですが、HPやプレ上映会である程度の想像はついていたので、内容はほぼ予想通りのものでした。
オーディションに参加した素人の人たちが千人近く出ているので、演技として洗練されていないところがあるのは止むをえませんが、それも手作りの味わいがあって、親しめるものでした。
この1月くらい、ほんのわずかですが関わって感じたのは、この映画やその存在を知って感動するだけでなく、実際にその普及に協力しようと動き出す人たちの割合の多さです。
それだけ、多くの人がこういったものを求め、また社会を変えていくことが必要で、これがその起点になり得ると感じているのだと思います。
この映画の存在を私が知ったのは、「懐かしい未来」のMLに、面識のあるA氏が私の家から便のいいところで中心になって開催するということで、HPを見たことでした。
その後、私も協力者のMLに入れていただきましたが、そこでのA氏の熱の入れようの凄いこと。私より少し年上で、出版社に勤務されていますが、仕事ちゃんとできているのか? と傍目から心配になるくらい頻繁に、プレ上映会を色々なところで開催されていました。
それだけ入れ込む理由は何かのか? 心に引っかかっていましたが、その謎が解明できた気がします。
この映画、企画の段階から試練に次ぐ試練で、しかしその都度何問をクリエーティヴに解決して完成に至ったわけですが、最初の脚本の案を全面破棄したあと、様々な人たちにインタヴューして、生の声を聞いています。
プレ上映会では、そのインタヴューのごく一部編集したものを、見せていただきましたが、その中に山之内義一郎という人が出てきました。
この方、映画の舞台になる新潟県の小学校の校長さんだった人で、「学校に森をつくった校長」としてホリスティック教育関係者には有名な方です。
ホリスティック教育という概念は、もともと北米でできたもので、シュタイナーやクリシュナムルティの教育等がその考え方にマッチしているといわれ、日本でも重視されています。(拙編著『未来を開く教育者たち~シュタイナー・クリシュナムルティ・モンテッソーリ…』は、ホリスティック教育協会に所属する先生方の協力を得てつくったものです。)
日本でも、江戸時代以前の寺子屋などは、かなりホリスティックな教育を行っていたのですが、西洋の学校教育が導入されて以降、そういった要素が無くなってしまっていました。そんな中にあって、「学校の森づくり」は日本のオリジナルなホリスティック教育として、最も評価の高いものでした。
子どもたちは、いのちの生きづく森の中で、自分の興味のおもむくままに遊びながら、準備された教材では絶対に不可能な多様なものを学び、森とともに成長していきます。
ただ、私は日本のホリスティック教育のあり方には、飽き足りないものを感じていました。「学校の森づくり」は確かに素晴らしいけれど、どこでもできるわけではなく、膨大なエネルギーを要します。それを何とか実現しなければ、と頑張るより、もっと多様な他の方法をクリエーティヴに創造していけないものか、と思っていました。
それとあと、全体の半分くらいがシュタイナー教育(の関係者)に占められている感じがあり、確かにシュタイナー教育も素晴らしいのですが、伝統・風土の違う日本にはそのままではうまく適用できないところもあるのです。
それと、いずれにしても、幼児~学校教育中心で、高等教育から社会人・生涯教育に関するホリスティック教育に関しては、関係者の関心が薄いのです。
私は、ホリスティックですからあらゆる年齢がバランスよく対象にされないといけないと思いますし、今の社会の現状、変革を考えたときには、大人のホリスティック教育こそが、必要であると考えていました。
「ホリスティック・リーディング」なども、その一つの提唱です。
しかし、なかなかいい方法が見つからなかったのですが、今回の『降りてゆく生き方』の運営のプロセスは、これぞまさに大人を中心にしたホリスティック教育といえるものではないか、と感じました。
『降りてゆく生き方』という映画は一つの教材であって、前後のプレ&アフター上映会を通して様々な交流を行う中で、お互いに学び合い、新たに創造していく。
まだ各所に粗削りなところが散見されますが、未完成だからこその良さというものがあると思います。それを積極的に評価したい。多分、私も関わって、もっといいものにしたい、というチャレンジ精神を起こさせてくれるところがあるのでは、と思います。
これまでもそうだったように、中心メンバーが権威にならずに謙虚さを保つことができれば、これからどんどん改良され、今はまだ想像もつかないことが生み出されていくことと思います。
作品としての映画と、関わった人と、ムーヴメントと、社会が、一体となって進化していくことが可能です。
1月11日に書いた「トランスアクション/トランスミッション/トランスフォーメーション」が、見事に実現できています。しかも、この教材は簡単にどこでも持っていって、教育の場を展開できます。
山之内義一郎氏が関わったというのも、非常に象徴的な感じがします。
これまで最高とされていた成果を含みつつさらに発展させた、日本発の素晴らしいホリスティック教育の教材であり、システムだといえるのではないか、と思います。
A氏に話を戻し、彼は以前、学校の教科書づくりの編集に長年携わっていたとのこと。それをつくりながら、その限界を感じ、こんなもので学ばせるのは愚民教育だとすら感じたことがある、と吐露されていました。
それで育った子どもたちは今、大人になっています。何とかかつての罪滅ぼしがしたい、というような意識ももたれているようでした。
彼があれ程入れ込んでこの映画の普及に情熱を燃やしているのは、教育関係者としての良心と、新たな可能性に期待しているからこそだと、感じました。
この映画、ほぼ1ヵ月後の3月25日、私の自宅のすぐ傍の江戸川区小岩アーバンプラザホールというところで、午前・午後・夜間の3回、開催されることになってました。
私が発起人として関わったわけではなく、たまたまだったのですが、何かのご縁と思い、ホリスティック教育および社会変革の実践的活動と思って、本腰を入れて協力しようと思っております。
当日は多分、受付け辺りで立ってると思います。
【第一回】 (託児あり・要予約) 開演 10:30~(開場 10:00)
【第二回】 (託児あり・要予約) 開演 14:30~(開場 14:00)
【第三回】 開演 18:00~(開場 17:30) ※本編開始 18:30~
上映時間:1時間45分 各回とも上映前にスペシャルトークがあります。
(前売/当日) 中学生以上 1,500円 小学生以下 500円
映画のHPは、http://www.nippon-p.org/mov.html
お申込みは、(1) 必要事項を記載の上、以下の宛先へメールを送信して下さい。追ってお返事いたします。
お申込み先 メールアドレス: edogawa325@nippon-p.org
必要事項: お名前/住所/電話番号/回(第一回、第二回、第三回)/枚数
お問合わせは、私の方にメール yahuvmh@f4.dion.ne.jp でも結構です。是非、皆様と会場でお目にかかりたいと思います。よろしくお願いいたします。
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